「漢委奴国王」の読み方は?

「漢委奴国王」の読み方は?

金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。 この説でひとつ引っ掛かるのは「倭」が「委」になっていることです。
一般的に、これは「イ(にんべん)」が略されたものと考えられているのですが、実際「倭」という漢字が誕生したのがどうも金印が製造された後の事ではないかといった事が考えられるのです。 具体的に説明すると、中国統一後の時代は

秦 
↓ 
漢 
↓ 
新 
↓ 
後漢 
↓ 
三国時代 
↓ 
晋 
↓ 
五胡十六国 
↓ 
南北朝(宋・北魏)

と変遷するのですが、「倭」という文字が載る書物、三国志の「倭人の条」は晋の頃に書かれ、金印の事が記載される「後漢書」は南北朝時代の南朝・宋の時代に書かれています。この二つの書以外にも「論衡(ろんこう)」というものがある様ですが、こちらも金印が奴国王に送られた同時期か、それ以降に書かれたものの様です。また「漢書」にも「倭」は記載されているようですがこちらも後漢に書かれた書物になります。このように金印が製造される以前(西暦57年以前)に「倭」という文字は見当たらない様なのです。
またネットで調べたみたのですが、「倭」という漢字は「日本」ということ以外の意味をもっていないようです。
これ等の事より、「倭」は後漢以降に派生した文字の様な気がしてならないのです。もしかしたら、後漢代の歴史家が「委」に単に「イ(にんべん)」を付け足して作った新漢字なのかもしれません。 この様な考えからすれば、「倭」を略して「委」と刻んだのではなく、金印に刻まれた「委」が先で、何らかの誤解が起こり「イ(にんべん)」を付け足したという順番が考えられるのです。

以下に根拠のない想像のみの説を書いてみます。 金印「漢委奴国王」は「漢の委任した奴国王」という意味で彫られたもので、その判を見た後代の中国の歴史家が「委」を民族名と勘違いし、文章に頻繁に使用される「委」を民族の固有名詞として扱うのは差し障りがあると考え「イ(にんべん)」を付加し当て字を作ります。後代の史家はこれに倣い、日本の事を「倭」と記述したのでは? こんな事を推測していると「カン・イ・ナコクオウ(漢の委任した奴国王)」という読み方も一説として有りなのではと感じるのですが・・・ たぶんこの説は、過去の日本の歴史家の説として挙がっているのかもしれません。正誤は別にして普通に読めばそう読めてしまうのですから・・・