「福岡史伝」及び「記想録」に記載する記事の下書きや名所旧跡に置かれている説明文を掲載しています。
【Draftに関する投稿】
「黙ってろ!!」ってどうだろう? 投稿日2022年9月7日
勝海舟は『氷川清話』で次の通り語っています。
我に四角な箱を造って置いて、この箱に丸い物や三角の物を詰め込むのはご苦労千万な事だ。
執一の定見をもって天下を律せんとするのは、決して王道で [...]
生の松原元寇防塁 投稿日2021年8月1日
国指定史跡
元寇防塁
1274年、元は900艘の軍船と2万8千人の軍兵で博多湾に攻めこみ、その西部に上陸し、九州の御家人たちと激しい戦いをくりひろげました(文永の役)。
その後、鎌倉幕府は元の再度の来 [...]
私の辞書に諦めという文字はない 投稿日2021年7月6日
ナポレオンの「我輩の辞書に不可能という文字はない」という言葉は有名ですが、ナイチンゲールは、「諦めなどという言葉は私に辞書にはない」といったという事です。
彼女はフィレンツェ生れの英国人になります。3 [...]
只今『記想録』を更新中 投稿日2021年6月8日
現在、『記想録』を頻繁に更新しています。
勝海舟、佐藤一斎の言葉の他、日本の名言や中国古典からためになる言葉を選び掲載中。
興味がある方はこちらにどうぞ!!
[...]
怡土城(いとじょう)について 投稿日2021年6月6日
怡土城は奈良時代に、高祖山(たかすやま)に築かれた山城になります。高祖山は福岡市西区と糸島市を隔てる位置にあり、鎌倉時代には筑前の古豪、原田氏の居城となっています。
続日本紀には「756年6月怡土城築 [...]
『海舟座談』の疑問解消!! 投稿日2021年5月23日
『海舟座談』の著者・巌本善治氏が海舟宅に出入りしたのは、明治20年8月から、海舟に最後に面談した明治32年1月14日までの約11年を超える期間になります。しかし、『海舟座談』には明治28年7月~明治3 [...]
独立自信を貴ぶ 投稿日2021年5月16日
士は独立自信を貴ぶ。熱により炎に附くの念起すべからず。
志の高い人は確固たる自身の考えをもって行動するものである。勢いのあるものに寄り従うような気を起こしてはいけない。
佐 [...]
立志は本心の好む所に従うのみ 投稿日2021年5月14日
学問を始めるには志を立てる事が大事である。ただ人が強いてはいけない。志を立てるのは本人の気持ちに従うべきである。
佐藤一斎 言志録 [...]
免れんと欲するは不可なり 投稿日2021年5月12日
おおよそ、身に降りかかってくる艱難変故、屈辱讒謗、払逆は、みな天がわが才を成長させるために課すもので、砥礪切磋の実践である。志を高く持つ者は、これに対応する方法を熟慮すべきである。なにも考えずにこれら [...]
凡そ人を諫めんと欲するには 投稿日2021年5月11日
凡(おおよ)そ人を諫めんと欲するには、唯だ一団の誠意、言に溢るる有るのみ。苟(いやし)くも一忿疾の心を挟まば、諫は決して入らじ。
人を諫めようとする場合は、誠意の心あるのみで、怒りや憎む [...]
勝先生、容易に胸襟を開かず 投稿日2021年5月6日
先生に従って教を請わんと欲せば、真に先生によりて学ぶの決心なかるべからず。しからずんば、先生は容易にその胸襟(きょうきん)を開かず。ただ放言(ほうげん・無責任に言い散らす事)大語(たいご・大げさなに言 [...]
臣下百姓の罰おそるべし 投稿日2021年5月5日
神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし。
益軒はその理由を次のとおり記しています。
神の罰は祈ってまぬがれ、主君の罰はお詫びをして許しを請えばよい、ただ部下や民に疎まれては、 [...]
毛利勝永、小倉を去る 投稿日2021年5月4日
毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋が [...]
鎮懐石八幡宮 投稿日2021年5月3日
鎮懐石八幡宮御實記を始め、古事記、萬葉集の鎮懐石を詠める歌、などによると、神功皇后(息長足日女命)は應神天皇を懐妊しながらこの地を通って、朝鮮半島へ兵を出された時に、卵形の美しい二個の石を求めて肌身に [...]
坂本龍馬先生誕生地 投稿日2021年5月2日
坂本龍馬(1835-1867)
郷士坂本八平の次男 実名直柔 天保6年11月15日出生 江戸に出て千葉定吉に師事 北辰一刀流の目録を受ける 時勢に感じ武市瑞山の土佐勤王党に加盟 文久2年3月24日脱藩 [...]
武市瑞山先生殉節之地 投稿日2021年4月27日
武市小楯 通称は半平太 瑞山と号す 文政十二年九月長岡郡咲井村に生る 天資英偉明秀人格一世に高し幕末多難の際 土佐勤王党を率い国事に奔走す 後吉田東洋暗殺に連座し慶應元年閏五月十一日この地に割腹す 時 [...]
二卿事件 -久留米藩難- 投稿日2021年4月25日
明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」と言う出来事が、これより以前の明治4 [...]
不落の柳川城炎上す 投稿日2021年4月24日
1873年(明治5年)、不落の城と呼ばれた柳川城から出火し城郭は焼け落ちます。
出火の原因は公式には不明とされていますが、地元民の間では、この炎上が放火によるものらしいという話が伝わっている様です。
[...]
海舟と龍馬 投稿日2021年4月18日
1864年(元治元年)、海舟は四カ国艦隊の下関攻撃を思いとどまらせる交渉のため長崎に出張します。この時、供についたのが坂本龍馬と高木三郎になります。一行は筑後町(現在のJR長崎駅の東側)の福済寺に入り [...]
勝の二宮尊徳評 投稿日2021年4月14日
勝海舟は若き頃、二宮尊徳に一度だけ面会した事があるようで「至って正直な人」という印象を持ったようです。また、人にも会いに行くように勧めたと語っています。
二宮尊徳は神奈川県小田原市栢山( [...]
芥舟の海舟評 投稿日2021年4月5日
古今の英傑は、時には策略を用います。最近で言えば、運動とかいう事で、極めて秘密に策を巡らし、あるいは利をもって誘い、反対の人を味方に引き入れるような小細工をする事がございます。この様な小細工は一時的に [...]
明六社メンバーがドン引き 投稿日2021年4月4日
杉亨二(日本近代統計の祖であり、元勝海舟塾塾頭)は明六社の主要メンバー等と海舟を招待しようと打合せ、上野・精養軒に集います。杉、福沢諭吉、森有礼の他、数名のメンバーがホントに勝が来るのだろうかと話して [...]
唐原・落人の里 投稿日2021年3月31日
平安時代の末、栄華をきわめた平家の勢いにも陰りが見えはじめ、源氏によって都を追われた人々は西国の各地に隠れ住んだ。この唐原(とうばる)の里にも、平清盛の息子である平重盛の内室と、千姫、福姫という2人の [...]
今津元寇防塁 投稿日2021年3月29日
国指定史跡 今津元寇防塁
13世紀初め、チンギス・ハンはアジアからヨ-ロッパにまたがるモンゴル帝国をうちたてました。その孫、五代皇帝フビライは、国名を元と改め、日本に使者を送り通交を求めました。しかし [...]
パークスは悪い奴じゃない 投稿日2021年3月27日
勝塾の塾頭・杉亨二がパークスの傲慢さを述べると、勝はそれを否定します。
「横浜のパークスを訪ねると、こっちは敗北同然だから、軽蔑しての事か、会おうとしない。そこで事情を説明して面会を促す [...]
原鶴温泉に行こう!! 投稿日2021年3月23日
⑮原 鶴 ~県内有数の出湯の里~
温泉と言えば、県内有数の名を馳せる原鶴温泉が志波に在る。「杷木町史」によれば、原鶴温泉のほとんどが単純温泉アルカリ温泉である。原鶴は、火山帯から離れてい [...]
臼井六郎・最後の仇討 投稿日2021年3月21日
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治 [...]
井上伝の胸像 投稿日2021年3月17日
久留米絣の開発者、井上伝の胸像です。この像は近代産業の担い手となった著名人とともに久留米・五穀神社の東側に立っています。
絣とは織る前に糸の一部を染め、その染まった部分と染まっていない部分の交わり方で [...]
左から三番目は誰? 投稿日2021年3月15日
この写真は佐賀市の大隈重信記念館に展示されていた佐賀の偉人の若かりし頃の集合写真です。左から副島種臣、二番目は大隈重信ですが、三番目の頬かむりの人が誰かわかっていないようです。説明文には「江藤新平か大 [...]
臼井六郎の生誕地 投稿日2021年3月14日
日本最後の仇討
臼井六郎の生誕地
父臼井亘理・清子夫妻 干城隊により斬殺される。一子六郎 苦節13年江戸旧黒田家別邸にて犯人を父遺愛の短刀で刺殺し仇討を果たす。M0.5.24 M13.12.17
墓は [...]
蜷城の由来 投稿日2021年3月14日
朝倉市林田にある美奈宜(みなぎ)神社にはその地域の呼び名「蜷城(ひなしろ)」の由来が伝えられています。
大昔、ここはよく肥えた豊かな地でしたが、古処山に羽白熊鷲と言う者があり、時々山を下 [...]
不足不平は一概にわるくないヨ 投稿日2021年3月13日
海舟は「定見深睡」とゆう西洋の言葉をとり挙げて、定見に固執することを戒めています。
今日の是は、明日の非、明日の非は明後日の是といふ風に、一時も休まず進歩すべきものだ。
そ [...]
公私相半ばすれば 投稿日2021年3月4日
人は、公私相半ばすれば、大変なものだ。釈迦や、基督のような人は公ばかりだろうが、そのほかの人は、なかなか公ばかりということは出来ぬ。公私相半ばすれば、よほどの人だ。これをこうゆう都合にといってすれば、 [...]
海舟は性善説?性悪説? 投稿日2021年3月2日
『新訂海舟座談』で海舟は性善説、性悪説に言及しています。
孟子は、性善といい、荀子は性悪といったが、性善でもなく、性悪でもないようだが、先ず、どッちかと言うと、悪い方が多いようだ。
&n [...]
羽白熊鷲の碑 投稿日2021年3月1日
羽白熊鷲の碑
仲哀天皇御代 木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり其の長を羽白熊鷲という 荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す
神功皇后 新羅征討の途次橿日宮( [...]
勝海舟の不党のすゝめ 投稿日2021年2月27日
勝海舟は多数の弟子や学びを請う若者が多かったにも関わらず、党を作って時世を動かそうという行動をとっていません。
この事について『氷川清話』にはこのような海舟の言葉が載せられています。
人 [...]
その身を世間の風浪に投ず 投稿日2021年2月23日
天下は、大活物だ。区々たる没学問や、小智識では、とても治めて行くことは出来ない。世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の微を究めて、しかる後、共に経世の要務を断ずることが出来るのだ [...]
臼井六郎の叔父・八坂甚八 投稿日2021年2月21日
八坂甚八は黒船来航の年に鳥栖で生まれます。明治期に財力を元手に運送業で事業を起こし、九州鉄道の分岐点を鳥栖駅にすることにも奔走し敷地の提供も行います。この様に地域発展に尽くした甚八はその後に国会議員に [...]
『氷川清話』と『海舟座談』 投稿日2021年2月11日
『氷川清話』(講談社学術文庫)は吉本襄(のぼる)が海舟に関する記事を収集し編集した『海舟先生氷川清話』を検証再編集した談話集。
『新訂海舟座談』(岩波文庫)は海舟宅に出入りしていた巌本善治が海舟から直 [...]
吉塚の由来 投稿日2021年1月27日
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に [...]
海舟の手切れ指南 投稿日2021年1月25日
維新の頃の話です。とあるお役人が海舟先生を訪ねた際、雑談ついでに「愛人が飲み代を立て替えてくれるのです」とのろけます。
それからしばらくして、そのお役人が再び先生の元を訪れ、別れ話で先の [...]
人を棄てあるいは笑うべからず 投稿日2021年1月24日
山岡鉄舟は「人にはすべて能不能あり 一概に人を棄てあるいは笑うべからず」という言葉を残していますが、鉄舟にとって絶対に捨てられなかった人物とは、おそらく薩摩の益満休之助の事だと思われます。
  [...]
理屈ではわからない 投稿日2021年1月23日
およそ世間の事には、順潮と逆潮とがある。したがって気合も、人にかかって来る時と、自分にかかって来る時とがある。気合が人にかかったと見たら、すらりと横にかわすのだ。もし自分にかかって来たら、油断なくずん [...]
海舟が恐れたもう一人の男 投稿日2021年1月17日
勝海舟は横井小楠と西郷隆盛を恐ろしい人物として挙げていますが、別の意味で恐れたもう一人の男として河上彦斎を挙げています。
河上彦斎は幕末の人斬りで知られる人物で、幕末から維新にかけて結構な人を斬った [...]
九州の仕置き 投稿日2021年1月11日
秀吉は島津を降すと筑前に戻り、九州の仕置きを行います。
小早川隆景 筑前国、肥前の基諱郡(三養基郡)、養父郡(鳥栖市)、筑後の三潴郡(久留米西部)、三原郡(小郡市、現在の三井郡)
[...]
卑弥呼の親魏倭王印? 投稿日2021年1月4日
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけ [...]
金印の「委」は「倭」の略字? 投稿日2021年1月2日
「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。
後漢書には「 [...]
人を説得するには? 投稿日2020年12月22日
島津氏は肥後、肥前、筑後と各地の豪族を従わせ北上し大友氏を追い詰めます。また筑前各地の豪族は大友氏と対立していたため、島津氏の北上を歓迎します。秀吉は島津征伐のため大軍を九州に上陸させるものの、九州で [...]
本能寺の報、毛利に届く 投稿日2020年11月29日
秀吉の陣に本能寺の報が届いたのは1582年6月4日未明になります。孝高は早朝に毛利に使者を遣わし「約束の人質の早急の差出し」を促しますが、毛利側は「準備中」と履行を引き延ばしにしていたところへ、金井坊 [...]
英賀の戦い 投稿日2020年11月23日
小寺政職の織田内通が毛利に伝わると、毛利輝元は5千の兵を姫路南西の英賀(あが)の海辺に上陸させます。
この知らせを受けた孝高は小寺政職に「小勢で大勢の敵と戦うには、敵の不意を衝くしかありません。敵が寄 [...]
[1] [2] [3] [4] [5]