文久三年(一八六三)六月、萩本藩主の命を受けた高杉晋作が馬関に出張し、武士以外の人たちも入隊を許し、奇兵隊を結成した。
奇兵隊は翌、元治元年、米、英、仏、蘭、四ヶ国連合艦隊を前田砲台などに迎撃し、勇気をもって戦ったが新兵器を有する連合軍に敗退した。
同年十二月、高杉晋作の挙兵後、美東町、大田絵堂の内訌戦に勝利を得たのち、慶応元年四月に奇兵隊は吉田に転陣、慶応三年八月に兵舎、稽古場、講堂などを配した陣屋をこの地に築き移った。
陣屋では、きびしい規律に従い四百人の志士が毎朝六時起床、八時まで講堂で漢字を学び、九時から調練の日課で、外出は隔日に五人一組で、吉田地区内の散策のみが許された。
下関市
山口県下関市吉田「奇兵隊陣屋跡」にある案内板より