九千部山麓の南に横たわる朝日山は、頂上からの展望はすばらしく、また交通の要衝にあたるため、古代からさまざまに利用されています。『肥前風土記』によれば朝日山に烽が置かれ、西九州と大宰府を結ぶ重要な情報線のなかに位置付けられていたと考えられています。
朝日山城は建武元年(一三三四年)少弐一族の朝日但馬守資法が築城したことにはじまるとされ、第八代城主頼貫が敗死する享禄元年(一五二八年)までの約二百年間が朝日一族の居城となっていました。以降は勝尾城(城山)に構えた筑紫一族の支城となり、天正十四年(一五八六年)薩摩島津勢に攻め落とされています。
昭和六十一年六月吉日 鳥栖市教育委員会
朝日山城跡にある案内板より