俗明院の由来

俗明院の由来

西鉄朝倉街道駅の南に俗明院という土地がありますが、貝原益軒は「筑前国続風土記」にその由来を次の通り記しています。

「太宰府の西南にある村の名なり。むかし九國二島より太宰府に来りし民、若くは久しく逗留し、病をうけて死し、或餓死する者多し。太宰大貳小野岑守(おのみねもり)と云し人、是をあはれみ続命院と云ふ家をたて、田地をつけて病をやしなひ、飢を助く。」

小野岑守は平安初期に大宰大弐となった政治家で、九國二島とは九州各地と壱岐対馬の事になります。

益軒はこの地を訪ね続命院の跡地を地元民に尋ねてまわったようで、最後に次のように語っています。
「続命院は誠にめぐみ広き施設であるが、院はいつの頃にか絶えて今は村の名となる。最近では俗明院と書かれる。その院のあった跡を村中あちらこちら尋ねた歩いたが、今となっては知る人もいなかった。」