1873年(明治5年)、不落の城と呼ばれた柳川城から出火し城郭は焼け落ちます。
出火の原因は公式には不明とされていますが、地元民の間では、この炎上が放火によるものらしいという話が伝わっている様です。
この事件の前年の明治4年という年は、7月に廃藩置県が布告され、幕藩体制の解体が大詰めを迎えた時期に当たります。久留米藩、柳川藩、三池藩はそれぞれ県とされ、同年の11月には三県が統合され三潴県となります。これは柳川の士族たちにとって自治権を奪われるのに等しく、不満が広がります。年が変わり翌1月、新政府から命を受けた県令が赴任する情報が伝わると、柳川の一部の士族たちが城に立て籠もり武装蜂起する計画を始めます。
ここで登場するのが、柳川が戦場となる事を憂慮した元柳川藩の家老・立花壱岐になります。壱岐は過去に岩倉具視の諮問を受け、中央集権化のため廃藩置県を提案するなど、新しい日本の体制を見越していた人物です。
壱岐はこの蜂起を制止するために一計を案じます。
そして1月18日深夜、突然の出火で柳川城が炎上、多くの人々が見守る中で天守は崩落し姿を消し去ります。士族たちは籠もる予定だった城を失い、武装蜂起は頓挫することになるのです。
炎上の原因究明は出来ておらず、ここに書かれた事はあくまでもひとつの説になりますが、真実味はありそうです。
トップの図は、柳川城跡に置かれる案内板に記載される柳川城絵図になります。