秀吉は島津を降すと筑前に戻り、九州の仕置きを行います。
小早川隆景 筑前国、肥前の基諱郡(三養基郡)、養父郡(鳥栖市)、筑後の三潴郡(久留米西部)、三原郡(小郡市、現在の三井郡)
秋月種長 日向・財部(三万石)
立花宗茂 下筑後三郡(山門郡など)
高橋統増 三池郡
小早川秀包 上筑後三郡(久留米市及び東部一帯)
筑紫広門 上妻郡
高橋元種 日向の縣(延岡)
龍造寺 本領安堵、三郡加増
豊後・大友、肥後・相良、日向・伊東、肥前の有馬、平戸(松浦)、大村、五島、宗 本領安堵
黒田孝高 豊前六郡(京都、築城、中津、上毛、下毛、宇佐)
毛利勝信 豊前二郡(企救、田河)
小早川隆景の所領の多さが目立ちます。これは、中国大返しの際の隆景の対応が大きく影響したものと想像され、秀吉の信頼の大きさが伺えます。
しかし、孝高について貝原益軒は次の通り書いています。
秀吉公初より孝高の才智を知て、兄弟の約をなし、かたはらに置てその謀を用ひ、あるひは代官として敵をうたしめ、終に天下を草創し給ふ事、偏(ひとえ)に孝高の功なれば、其恩賞莫大なるべきに、孝高の大志あるを忌(いみ・きらい)給ひ、其上石田治部少輔等の権臣も、孝高の高才有て、我にへつらわざるをそねみて、時々讒をかまえければ、其功は大なりといえども、終い大國をば賜はらず・・・