臼井六郎の叔父・八坂甚八

臼井六郎の叔父・八坂甚八

八坂甚八は黒船来航の年に鳥栖で生まれます。明治期に財力を元手に運送業で事業を起こし、九州鉄道の分岐点を鳥栖駅にすることにも奔走し敷地の提供も行います。この様に地域発展に尽くした甚八はその後に国会議員にも名を連ねています。
 
ところで「最後の仇討」で父・臼井亘理(わたり)の仇を討った臼井六郎は八坂甚八に嫁いだ磯子(亘理の妹)の甥に当たります。仇討禁止令で有罪となった六郎は、約10年の刑期を終えた後も次の目的を探し出すこともできず、海外への渡航も考えますが、最終的に九州鉄道の鳥栖駅周辺の開発に奔走していた甚八の勧めで鳥栖に移り、鳥栖駅の待合所の運営を任されます。そして以後はそこに落ち着き余生を過ごすことになります。
 
「平穏な日々を取り戻して欲しい」というのが、磯子から六郎の波乱の前半生を聞かされた甚八の想いだったのかもしれません。
 
(上段右の写真は現在の鳥栖駅になります)


 

八坂甚八翁頌徳碑の由来

「鉄道のまち」の基礎を築く
 
八坂甚八氏は一八五三年(嘉永六年)、真木村の八坂六代目当主として生まれた。幼い頃から漢学を修め、英式訓練を学び、十六歳の時、商船八坂丸を造り、筑後川で舟運業を始め、以後様々な事業で成功をおさめ、地域の経済発展に多大な功績を残した。
 
また、常襲的な水害・干害を防ぐための揚水施設や水門施設の整備に尽力し、広大な優良農地を創出した。さらには、運送・銀行・農園等を興業するなど実業家として活躍する一方で、国会議員等政治家としても活躍した。
 
明治十八~十九年頃、鉄道の将来を見越した八坂氏は、九州鉄道の開通にあたり、鹿児島本線と長崎本線の分岐駅の誘致に奔走し、駅となる土地を自ら提供した。その結果、現在の東町に最初の鳥栖駅が完成し、この事が『鉄道のまち鳥栖』の発展に寄与した。
 
このような氏の功績を称え大正三年、八坂甚八翁頌徳碑が東町に建立され、その後、都市計画事業に伴い中央公園に移設されていたが、市制施行五十周年にあたりここに移設するものである。
 
平成十六年十月吉日
 

鳥栖市


現在この碑は鳥栖駅東側の「サンメッセ鳥栖都市広場」に立っています。