「保元の乱」「平治の乱」に勝利した平清盛は日宋貿易の独占を図るために博多・袖の湊の拡張工事に着手したものと思われます。これは博多商人の思惑と一致し博多の人々の平家への期待と支持は大きなものだったようです。『博多どんたく』の元となる『博多松囃子(まつばやし)』は清盛の嫡男・平重盛に感謝の意を表すために始められたという説もあります。
しかし、平家の栄華も二十数年でほころび始め、平家の人々は源義仲の兵に京を追われ大宰府に落ち延びます。九州は平家の影響力の強い地域でしたが、後白河法皇の平家追討の院宣が出されると、豊後の緒方氏は平家に対抗する姿勢を示します。これに安徳天皇と平家の人々は大宰府を脱し、山鹿(福岡県遠賀郡芦屋町)から柳が浦(北九州市門司区大里)、屋島(香川県高松市)、彦島(山口県下関市)へと逃れます。そしてついに「壇ノ浦の戦い」で敗れ去り滅亡への道をたどります。
その後、「壇ノ浦の戦い」で辛うじて生き残った人々も源氏の兵に追われ四散し、ある者は討たれ、ある者は自ら命を絶ち、ある者は山深くに分け入り落人伝説を残すことになるのです。

福岡史伝 -福岡 平家伝-