「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」
(「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」)
と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山の祖は筑前に勢力を張った時期がありました。
話は800年ほど遡り平安時代の「藤原純友の乱」の時になります。 瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った純友は、朝廷より派遣された討伐軍に伊予の本拠地を攻略されると海路筑紫へ逃れ大宰府を奪います。 これに対し朝廷は討伐軍を差し向けますが、この時に討伐に向かったのが大蔵春実(おおくらはるざね)です。 乱はほどなく鎮圧され春実は博多湾で藤原純友の軍船を奪い取り武功を上げ、そのまま大宰大監(だざいだいかん)に就任します。
そして春実の子孫は大宰府の南の原田に居を構え原田氏を名乗り大宰府の官職を歴任しました。しかし、源平合戦の頃に平家方に味方し、鎌倉幕府が成立すると領地を没収されます。 後に許され原田氏は怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を得、秋月に移った分家の原田氏は秋月氏を名乗り戦国時代まで領地を守ります。 戦国時代の「休松の戦い」では寡兵で大友宗麟配下の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら。のちの立花道雪)が率いる大軍に一泡吹かせますが、戦国末期には豊臣秀吉と対立して九州制覇を目指す島津軍側に従ったため、秀吉の九州平定後に日向串間(後に高鍋へ移る)に転封されました。
それから200年後、この高鍋秋月藩の第6代藩主秋月種美(あきづきたねみ)の次男として生まれた松三郎が養子として米沢藩に入り第9代藩主上杉治憲(鷹山)となるのです。
余談ですがこの秋月氏、南北朝の時代には「多々良浜の戦い」で足利尊氏に敗れ、「筑後川の戦い」では少弐頼尚に従い不利な状況で戦いは終わります。 これだけ源平時代、南北朝時代、戦国時代と敗れた側につきながら、明治維新まで生き残った氏族は珍しいのかもしれません。しかし、この逆境に対する強さが鷹山にも遺伝し大改革の源となったのかもしれません。
ところで、改革者としての鷹山の実績は広く高く評価され現在、様々な書籍が出版されています。またケネディ米大統領がもっとも尊敬できる日本人に鷹山を挙げたという逸話があり。 その逸話の真偽の論争が下火にならないのも、鷹山に興味を持つ人があまりにも多いからではないでしょうか?
冒頭の「なせば成る」は武田信玄の「なせば成る なさねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」の言葉を引用修正したものらしいのですが、逆に海軍大将山本五十六の残した「やってみせ 言って聞かせて やらせみて ほめてやらねば 人は動かじ」の言葉は 鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」に言葉を加えたものといわれています。
現在の停滞した日本社会。もう一度、先人たちの考えや行動を見直してみる時期に来ているのかもしれません。