古屋佐久左衛門先生伝
幕末開国論の先覚者古屋佐久左衛門先生は、高松虎之助直道(後に與吉と改む)の次男として、天保四年(一八三三 に生まれ名は智○通稱勝次と稱した嘉永四年(一八五二)十九才にして単身大阪に上り最初は医学を志したが己が性医学に適しないと知り志を転じて、江戸に出で刻苦勉励、血の泌む様な勉学の末学友の幕臣川勝丹後守の世話にて幕臣古屋氏の養嗣子となった。時に二十七才安政四年四月の事で名を鐘之助のち佐久左衛門と改めた。先生は一命を幕府の命運に捧げて遂に函館五稜廓に於いて散華した時に年三十七才その壮烈不墝な生涯の行績は明治三十四年辛丑十月草された大槻文彦博士の古屋君追遠文によって詳らかである人の一生と数奇とは予測することが出来ぬ先生の如きはけだしその典型であろう。
尊王討幕の軍に伍せず幕軍の将とならしめた。順逆二門の選擇は実に境遇と時勢によって決せられることを知るのである。落日孤城運命まさに尽きんとする徳川の天下を挺身これを支えんとする義憤烈情ついに衝鋒隊を組織して連戦屈せずよく隊員を掌握して北門の五稜廓に拠り榎本武揚を助けて歩兵隊総指揮官となり遂に骨を碧血碑下に埋めた。
ああもし先生をして維新後に生かしめ明治の廟堂に立たしめんかその蘭、露、英、漢の学識生死往来の膽略と接渉統御の材幹と素朴円轉な資性とは必ずや天下の信望を集めて外交に兵制に終綸を発揮したことを知るべきである。
春風秋風百余年を経て今賢兄賢弟共に故郷生誕の地に還り相対して建碑せられる余栄萬世を照らすと共に、この兄弟二傑を生んだ郷土は勿論高松家の家風を欽仰する次第である。
昭和五十年十二月 長州 中尾正氣齋 誌
小郡市郷土史研究会
久留米郷土史研究会
古飯区民一同
有志一同
日本赤十字精神の祖
高松凌雲(たかまつりょううん)の碑
高松凌雲は天保7年(1836)古飯の庄屋高松家の三男としてこの地に生まれた。
成人するに及んで久留米藩家老の家臣川原弥兵衛の養子となるが24才の時に脱藩して医学の道を志す。
江戸で医学の修養に励んだ後、文久元年(1861)には大阪の緒方洪庵塾(適塾)への入門が許されている。その後一橋家に仕官したのをきっかけに、慶応2年(1866)には15代将軍徳川慶喜の奥詰医師を命ぜられた。慶応3年には徳川昭武(慶喜の実弟)に随行してフランスに赴き、そのままとどまって医術(外科学)の研究を続けていたが、翌年戊辰戦争勃発の報を受け急遽帰国の途についた。帰国後は幕軍の榎本武揚らと行動を共にするが、箱館では病院頭取として敵味方の別なく傷病兵1300余人の治療にあたった。
戊辰戦争終了後は一介の町医者として開業し、明治12年(1879)には医師仲間と「同愛社(どうあいしゃ)」を設立し、貧民施療に努めた。 凌雲は大正5年(1916)東京の自邸において81才の生涯を閉じるが、「同愛社」は昭和20年(1945)まで続き戦前の日本における社会福祉医療の一端を担った。
小郡市古飯(ふるえ)にある石碑「幕将古屋佐久左衛門生誕之地」及びクロスロードふくおか「高松凌雲先生生誕之地」の案内板より
文中の○は判読できなかった部分です。