少弐景資の墓

少弐景資は、文永十一年(一二七四)と弘安四年(一ニハー)の二回に渡る蒙古襲来に際し、第一線の指揮官として活躍した勇将であります。
弘安七年北条時宗が病没した後、鎌倉幕府の内部一に政権争いが起こり、御家人中の最大有力者であった安達泰盛一族が、北条氏得宗(本家)の家宰平頼綱一派によって討伐されました。弘安八年(一二八五)十一月の霜月騒動であります。
当時、少弐景資は蒙古合戦に参戦した多数の鎮西御家人の要請を汲み取って、また、得宗勢力の進出を喰い止めるために、岩門城(墓より東北側約七〇〇米の城山)に挙兵しました。
太宰府に居た景資の兄少弐経資は鎮西奉行・筑前守護人としての責任上、肥前守護北条時定等と共に得宗派に組し岩門城を攻めて弟景資を滅ぼしました。これを岩門合戦と申します。外国侵略防衛の第一の功将も国内政略の犠牲となったのです。
この五輪塔は、岩門城で戦没した景資の墓と伝えられて来たものであります。

平成六年三月 那珂川町商工会 建立


現地の案内板より
写真左手の山が少弐景資の居城・岩門城のあった城山になります。そして景資の墓はこの山の麓・山田に置かれています。