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「福岡史伝」に記載する記事の下書きや名所旧跡に置かれている説明文を掲載しています。

 


「福岡史伝」
-福岡2000年の歴史をかんたん簡単解説-

 

福岡の歴史は古く、西暦57年に中国後漢の光武帝より奴国王に金印が送られ、それから約三百年後に書かれた三国志にも奴国として登場します。
以来、磐井の乱、白村江の戦い、高僧鑑真の来日、菅原道真の左遷があった平安時代から、元寇「文永・弘安の役」の鎌倉時代、足利尊氏、菊池武光、今川了俊などの英雄を輩出した南北朝時代、高橋紹運の岩屋城籠城戦と豊臣秀吉の「博多町割り」、五卿の遷座と筑前勤皇党の幕末。

日本史の重要な場面には必ず登場するのが福岡です。福岡の歴史を知ることで、日本史の全体像を側面から捉える事ができるものと思われます。

そんな福岡の歴史を名所旧跡をまじえながらご紹介します。
遠方で歴史研究をされている方、観光、出張で福岡に来られる方のために僅かでもお役に立てればと考えています。

福岡史伝


 

 

【Draftに関する投稿】

徐福伝説は福岡にもあった? 投稿日2017年3月29日
徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かいましたが、以後、徐福は広い土地を得て王となり始皇帝の元に戻ってくる事はあり [...]

福岡人物伝 筑紫広門 投稿日2017年3月8日
筑紫氏は筑紫(筑紫野市南部)に居を構えた豪族で、鎌倉時代から南北朝時代にかけては少弐氏の被官だったと考えられています。おそらく筑前に侵攻してきた大内氏に圧迫された少弐氏と共に肥前東部に追われ養父(佐賀 [...]

咎むべからず。憂うべからず。 投稿日2017年1月21日
貝原益軒は著書「養生訓」に次のような事を記述しています。 「世の中の人の行動が、自分の意にそわなくても、『人とはそんなものだ』と考えて、人の悪いところは、なだめ、許して、咎めてはいけない。そして怒っ [...]

酒食を過すは腹中を戦場とするが如し 投稿日2016年12月31日
胃腸を酷使する時期も山場を迎え、正月明けには胃腸薬のお世話になる人も多いのかもしれません。 ところで、貝原益軒の「養生訓」には過酒食について次の通り書かれています。 「酒食を過ぎると、強い薬を用いな [...]

毛利氏の筑前侵攻 投稿日2016年12月18日
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り [...]

名家衰退 投稿日2016年12月12日
南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。し [...]

養生訓 「怒」と「欲」について 投稿日2016年12月10日
貝原益軒は著書「養生訓」で怒りと欲について次のような事を語っています。 「怒と欲との二つ、最も徳を破り生を失う。怒りを懲らし、欲を塞ぐは易の戒めなり。怒りは火が燃ゆるが如し。人の心を乱し、元気を損な [...]

蒲池氏の滅亡 投稿日2016年11月27日
「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、触れなければならないのが佐賀の龍造寺氏の事になります。 1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて [...]

歴史語呂合わせ 投稿日2016年11月25日
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんで [...]

高橋と筑紫の和約 投稿日2016年11月22日
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥 [...]

耳川の戦い-筑前・筑後- 投稿日2016年11月20日
同族間で争いを繰り広げていた島津氏は貴久が当主になると、周辺豪族を従え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後には日向を奪われ豊後大友氏の元へ逃 [...]

鷲ケ岳城の攻防 投稿日2016年10月26日
1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひ [...]

究極の堰・山田堰 投稿日2016年10月22日
朝倉市山田にある「山田堰」は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。 筑後川の北側の地域は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊 [...]

日本人は勝負事が好き? 投稿日2016年9月27日
南北朝時代の九州の覇者・懐良親王は、倭寇の取り締まりを実施しなければ軍を派遣すると脅しをかける明の洪武帝に 「賀蘭山(がらんさん・中国北部の壁画遺跡のある山)に相会して博打でも楽しもうではありません [...]

「滇王之印」 -福岡市博物館- 投稿日2016年8月13日
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。 この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次 [...]

酔っぱらいは芸術家? 投稿日2016年8月2日
またまた飲酒の話になりますが、貝原益軒は「養生訓」に多飲の戒めとして次の通り記しています。 「生来謹厳な人も多く飲めば、欲深くなってみぐるしく、平常心を失い乱れてしまう。言行ともども狂ったようで、日 [...]

もう一つの古都・豊津 投稿日2016年7月21日
福岡の古都といえば誰もが大宰府を思い浮かべるに違いないのですが、福岡にはもう一つの古都が存在します。 それが京都郡みやこ町・豊津とその周辺の地域になります。ここには豊前国分寺や豊前国府跡、船迫窯跡(築 [...]

酒は天の美禄なり 投稿日2016年7月2日
貝原益軒は養生訓で「飲酒」について次のように語っています。 「酒は天の美禄である。少量の飲酒であれば陽気になり血行も良くなり、食欲も出て、愁いを忘れ、やる気が起こり、たいへん利益がある。ただし多量に [...]

漢委奴国王の金印 投稿日2016年6月21日
後漢初代皇帝から奴国王へ送られた金印 1784年、志賀島の田地で側溝の整備をしていた地元農民によって金印が発見されます。 金印は儒学者・亀井南冥に鑑定依頼されますが、南冥は中国南北朝・宋の時代に書か [...]

ただいま禁煙中・・・ 投稿日2016年6月18日
禁煙するのは簡単ですが、タバコを止めるのは難しい・・・。 禁煙すること数十回、最高2年間やめましたが、ストレスでここ1年間喫煙中でした。 ところで江戸時代の儒学者・貝原益軒はタバコについて名著・養生訓 [...]

博多古図の絵馬-住吉神社- 投稿日2016年6月8日
800年前、天神・中洲は海の中だった!? 博多古図解説 この博多古図は当住吉神社蔵の絵馬で鎌倉時代に描かれたものを江戸時代に筆写し明治になって奉納されたものであります。 西公園は古から「荒津 [...]

筑紫に置かれた漏刻とは? 投稿日2016年3月6日
漏刻とは水時計の事ですが、中大兄皇子がこの漏刻の研究をしていた事はあまり知られていません。 大宰府政庁の東側の小高い丘(月山)には漏刻が設置されていたといわれ、皇子の母・斉明天皇の藁葬(こうそう・仮埋 [...]

鎮西反乱 投稿日2016年2月17日
1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対する不満が爆発します。京では源頼政が以仁王に従い、伊豆では源頼朝、木曽では源義仲が挙兵します。 以仁 [...]

巌流島の決闘 投稿日2016年1月4日
関ヶ原の戦いで天下の大勢が決すると西軍だった豊前小倉の主・毛利勝信は改易され、豊前には細川家が入ります。そして細川氏はその約20年後に加藤清正の子・忠広が改易された肥後に移ります。それに代わり豊前小倉 [...]

寛政異学の禁 投稿日2016年1月4日
各地で藩校が開設された田沼意次の開放政策時代を経て松平定信は1787年より「寛政の改革」を行います。 質素倹約、文武奨励を柱とする政策は学派統一の方針にも向かい、儒学の講義を朱子学に絞り陽明学や古学な [...]

巌流島の住人は? 投稿日2015年12月31日
宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した巌流島は山口県の観光名所として有名ですが、江戸時代は豊前小倉藩の領地だったということです。これは「関ヶ原の戦い」で敗れ徳川家より本州の西の片隅に押し込められて不満を持つ [...]

「漢委奴国王」の読み方は? 投稿日2015年11月16日
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族 [...]

おしどり伝説 投稿日2015年10月8日
貝原益軒は「筑前國続風土記」に次のような話を載せています。 戦国の頃、筑後三原郡に三原貞吉(みはらさだよし)という武将がいました。大友氏の配下で、ある日に所用で主家の豊後へ出かけます。その途中、志波村 [...]

奈良時代の筑後・肥後の農民たちの事 投稿日2015年9月6日
奈良時代に筑後・肥後で農政改革を行った道君首名(みちのきみおびとな)の功績は間違いなく褒め称えられるべきものなのでしょうが、その功績は農民たちの協力なくしてはなし得なかったのかもしれません。 どんな経 [...]

有馬記念の由来 投稿日2015年9月6日
余談ですが、競馬のオールスター戦で、かつ一年を締め括るGⅠ(グレード1)レースの「有馬記念」は中央競馬会理事長だった有馬家15代当主、有馬頼寧(よりやす)氏により提唱開設されたレースです。競馬に興味の [...]





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