大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑んでいます。
しかし1586年、大友宗麟の要請により豊臣秀吉が九州に派兵の動きをみせると、筑紫広門は一転、大友の将・高橋紹運と和解の道を選びます。紹運としては遺恨のある相手でしたが、破竹の勢いで北上する島津勢の面前に、味方の勢力が立ちはだかる事を考えると、他の選択はありえなかったのでしょう。
同年4月、両者は岩屋城で高橋家嫡男・統増と広門の娘の婚儀をとり行い、また重臣の子息をお互いに入れ替え、和んだ雰囲気の中、和議は整います。
これに驚いたのは広門の盟友だった秋月種実です。この厄介な同盟を島津へ知らせる使者を立て早期の侵攻を促します。
そして7月6日、島津の軍は筑後北部に現れ高良山(久留米市市街地の西部)に陣を敷き、8日には広門の城を激しく責めたため広門は降伏、囚われの身となり、島津軍の岩屋城攻めは時間の問題となります。
紹運は嫡男・統増と妻室、筑紫の家臣団、家中の足軽を要害の宝満城に籠もらせ、自らは居城を捨てるのを潔しとせず岩屋城で島津軍を迎え撃ち、壮絶な戦いを繰り広げた末に将兵たちと共に玉砕します。
その後、広門は秀吉の九州上陸で動揺する島津の兵の隙を突き、幽閉されていた筑後の大善寺を脱出し自領に復帰します。
高橋紹運と対照的な筑紫広門の一連の行動をどう受け止めるかは人それぞれでしょが、目前に迫る大きなリスクを背負いながらも、一世一代の大勝負に打って出て、自らの前途を切り開いた広門の生き様には紹運と違った意味で潔さを感ぜざるを得ません。