宗像市の平信盛公墓

宗像市の平信盛公墓

- 平信盛公墓の碑 -

墓は白塀の奥にあり、案内板には次の通り記載されています。


宗像市 文化財第一号
史蹟 (昭和四十九年三月三十日)
名称 平信盛笠塔婆 一基
説明

この墓碑は平信盛(清盛の孫 父は中納言知盛)月絵姫(大納言光盛の息女)御夫妻のもので人皇第八十一代安徳天皇が寿永四年三月平氏一門の壇の浦敗戦と共に二位の尼時子(清盛の妻)に懐かれて入水崩御せられ平家一門もこの戦いで殆ど戦死や自殺して海底に沈み滅亡したが信盛は他日の再挙を期して深山幽谷に身をかくし源氏の目を避けんとして英彦山から宗像一の宮(辺津宮)孔大寺権現の社にと供人八十五騎を従えて落ちのびた。
その後たまたま鶴山(釣山)に金鉱を見出しこれの採掘に従事するとともに井上五郎大夫と改名し安住の地と定めた その後更に大賀と改姓信盛より八代目大賀惣右ヱ門の世には極めて繁栄して千余戸を数える鉱山町となり禁裏より永野の姓を名のるよう指示があり今日に及んでいる この墓所ははじめ石塔山にあったが洪水のため埋没したので明治二十一年十一月永野家一統が協議してコウモリ塚に移し墓石も永年の風雨に表面の刻字も磨滅したので新らしくその節刻名し天蓋石と台石のみ八百余年の寂影をとどめている。
昭和五十一年一月二十日
宗像市教育委員会