西鯵坂城跡
ここから東南二百米ばかりの所、大楠の下に小さい石の堂が建っている。ここが城の中心地で、筑後志には「筑紫上野介家宗が據りし所なり。縦六十間、横二十間の平城なり」と書いてある。宗氏代々の居城であった。戦国時代の末期、薩摩の島津義久は九州を征服しよう○○て軍を進め、筑後川を渡って岩橋麟迦の居城古賀城(宮ノ陣町古賀)を落して西鯵坂城におし寄せた。城主宗統家が死守したが衆寡敵せず遂に全滅の悲運にあった。島津軍は尚北上して太宰府の岩屋城に迫り高橋紹運を攻め亡ぼしたが、豊臣秀吉の援軍には敵しかね、薩摩に退いて降服した。今、城跡をさぐると、石の堂の内壁には次の字が刻してある。
明治十五年壬午二月吉日
大己貴神社
佐々木英雪
同 宗助
案内板の後半には「下西鰺坂邑」の説明が書かれています。
昭和五十三年二月
小郡市教育委員会
小郡市郷土史研究会案
による案内板より
○は判読不明の文字です。