宇佐八幡宮神託事件は続日本記(しょくにほんぎ)に書かれている出来事です。
続日本記の記事は769年、称徳天皇の怒りの詔(みことのり)から唐突に始まります。
「臣下というものは、君主に従い清く貞しい明るい心をもって助け守り、無礼な面持ちをせず、よこしまで偽ったり、へつらい曲がった心を持たず仕えるものである。しかし、(和気)清麻呂とその姉・法均は偽りの話を作り大神の言葉として上奏した。そこで国法によって両人を退ける事とする。またこの件で、清麻呂と事を謀った者がいるのは判っているが、今回は慈しみ哀れんで免罪とする。しかし、このような行為が重なった者は国法に従って処罰する。心を改め貞しい心を持って仕えるようにせよ。」
神託事件の概要は次の通りです。
764年に時の権力者・藤原仲麻呂が失脚し斬られると、その2年後に弓削道鏡は称徳天皇の後ろ盾もあって法王にまで登り詰めます。そして768年には大宰府の主神(かんづかさ)・習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が宇佐八幡宮の神のお告げと偽って「道鏡を皇位に即(つ)ければ天下は太平になるだろう」と上奏します。道鏡はこれに気を良くし、道鏡に傾倒する称徳天皇は和気清麻呂を玉座に招き、姉の法均に代わって宇佐八幡宮へ行き神託を受けて来る様に命令します。
清麻呂の出発に際し、道鏡は清麻呂に吉報をもたらせば官職官階を重く上げようと持ちかけますが、その後、宇佐八幡宮で宣託を受けた清麻呂は帰京し、宣託のまま「皇位には皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除けよ」と上奏します。
この出来事の後に冒頭の称徳天皇の詔がつながるのです。
称徳天皇の命で和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべきたなまろ)と改名、法均の名は広虫売(ひろむしめ)に戻され、法王の道鏡によってそれぞれ因幡(鳥取県東部)と備後(広島県東部)に配流されます。清麻呂には因幡に到着する前に再び詔が出され大隅(鹿児島県東部)に配流される事になりました。
日本後記では、大隅に向かう清麻呂に害を及ぼそうと道鏡は追手を差し向けたとされます。しかし豊前に着いた清麻呂の前に多くの猪が現れ、追手から守るように清麻呂を背に乗せて宇佐神宮へ送り届けます。その後、清麻呂は豊前・竹和山麓にしばらく滞在しますが、山麓の霊泉に足を浸すと足の傷が平癒し、以後この山を足立山と呼ぶようになったという伝説を残すことになります。
称徳天皇はこの事件の数日後に「目にかなった人を新しく立てることは、心のままにせよ」と勅をし、翌年8月に崩御します。その同月に道鏡は下野国薬師寺に左遷され、弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)とその息子たちも土佐国に配流されます。そして9月には清麻呂と法均は配流先より都に戻ることになりました。
続日本記には大宰府で偽りの上奏をした習宜阿曾麻呂のその後は書かれていません。想像になりますがこの書で見る限り、阿曾麻呂の上奏を画したのは、直前に大宰帥(だざいのそち)に就いた弟の弓削浄人ではないかと考えられ、道鏡の指示はなかったものと思われます。その道鏡は2年後に薬師寺で没します。権力を一時的に掴むも、自身にも見えない流れに翻弄された人生だったのかもしれません。そしてその9年後には浄人とその息子たちが郷里の河内国に戻ることを許されています。