臼井六郎・最後の仇討

臼井六郎・最後の仇討

秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治に元号が変わる江戸時代最後の年のことで、各藩で佐幕派重臣が切腹、粛清されていた時期に当たります。
両親の寝床の惨状が脳裏から離れない六郎は仇討を固く誓い、その想いは年を追うごとに募ります。そして苦節12年で旧秋月藩黒田家別邸にて出会った仇、干城隊隊士・一瀬直久を父親遺愛の脇差で討ち果たし仇討を成し遂げます。これは明治13年(1880年)12月17日、東京銀座辺りでの出来事になります。
仇討を果たした六郎は黒田家別邸の管理者に邸を汚した事を詫び、人力車に乗り警察へ出頭します。
取調官は一通りの訊問が終わると次に、元福岡の志士・早川勇の記した書(一瀬直久を擁護し、臼井亘理暗殺を肯定視する内容)を提示し六郎に意見を求めますが、それに六郎は「早川氏が一瀬の事を擁護するのは、私が亡き父の仇を報いるのと同じことです。もし違ったとしても、死を決して為した事ですので弁解には及びません。早川氏の望むご処分を願います。」
この言葉に取調官はもう何も言うことができず、逆にその態度に同情と称賛の念を感じざる得なかったといいます。
翌年には、東京裁判所で終身刑の判決が言い渡され、六郎は石川島の監獄に収監されますが、それからしばらくして秋月では一瀬直久の父・亀右衛門が自決します。亀右衛門は臼井亘理の暗殺事件直後、手を下したのが我が子だと知ると驚愕し、直久を強く叱責したと言います。
また母・清子を刃に掛けた萩谷伝之進という人物は女を斬ったという罪の呵責と六郎の復讐に怯え狂死したと言われます。ただ、こちらは出所が不明なので地元に伝わる話なのかもしれません。
 
それから約十年の服役後、六郎は恩赦を得て釈放されます。六郎は後悔の念を抱くことはなかったものの、仇討とはいえ人を殺害したという思いが付きまとったのか、次の目標も定まらず十数年を気力なく生きたようです。
明治39年、九州鉄道・鳥栖駅周辺の開発に携わる叔父・八坂甚八は六郎の事を気にかけ、鳥栖駅そばに待合所を経営することを勧めます。六郎はこれを受け鳥栖に移り、以後そこで余生を過ごすことになります。そして大正6年に60歳で没し、故郷の秋月・古心禅寺に葬られます。墓碑は父・亘理、母・清子と共に並んで建てられています。
 


トップ写真は臼井六郎の生誕地。右下の写真は両親とともに六郎が眠る古心禅寺。この記事は吉村昭氏の「最後の仇討」および、梅亭化作氏の「復讐奇談 倭魂故郷廼錦」(国立国会図書館デジタルコレクション)、早川勇氏の「一瀬直久履歴書」(早稲田大学リポジトリ)を参考に書いています。「一瀬直久履歴書」は書写文書で一瀬直久の死を悼み、家族に金壱百円を贈った事を記し、以降には臼井亘理の暗殺の経緯が説明されています。