前原一誠旧宅
萩藩の大組士佐世比彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、安政4年24歳の時に松下村塾に入門した。
戊辰戦争で北越官軍参謀を務め、越後府判事を経て参議に進み、ついで明治2年(1869)に大村益次郎のあとを受けて兵部大輔となった。越後府判事時代には信濃川の治水工事をはじめ、困窮農民の年貢を半減するなど民生に手腕を発揮したが、新政府の木戸孝允、大久保利通らとは意見が会わず、明治3年(1870)に辞職帰郷した。
全国的に維新の改革により士族たちの不満が渦巻いていたが、明治維新の主流派雄藩であった萩藩でも士族の不満は高まっていた。明治9年(1876)の秩禄廃止により士族の不平不満は爆発し、同年10月熊本の敬神党、福岡の秋月党が相次いで挙兵した。これに呼応して明倫館を本営として挙兵するが、事破れて刑死した。
旧宅は当時のままで現存され、墓は近くの弘法寺にある。大正5年(1916)従四位を贈られた。
萩 市
現地にある萩市の案内板より