毛利勝永、小倉を去る

毛利勝永、小倉を去る

毛利勝永は秀吉配下の森吉成(のち毛利勝信)の嫡男で、九州征伐の功により、田川企救郡を賜った父に従い小倉城に入ります。そして父・勝信は、約13年間この地を治めますが、その間に近隣の大勢力・毛利氏との繋がりで、姓を毛利に改めます。しかし毛利氏との間に太い血縁はなかったようです。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城を攻め落しますが、最終的に西軍は敗北します。この敗戦で毛利勝信、勝永親子は小倉の城を没収され、土佐の山内家に預けられます。そして、その地で勝信は死去しますが、大阪の陣が起こると勝永は土佐を脱走し大阪城へ走ります。夏の陣では後藤又兵衛や真田幸村と共に奮戦し二人の戦死を見届けたのち、大阪城にて豊臣秀頼の介錯を務め、自刃します。享年38。