名家衰退

南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。少弐氏は幕府の命を受け渋川氏を支援する大内氏により肥前に退けられます。
九州に地盤の薄い渋川氏にとっては大内氏の支援は不可欠なものでしたが、時が経ち気付いて見れば筑前は大内氏の支配するところとなり、渋川氏は肥前東部の小勢力という立場になっていました。

1533年、渋川義長は一転しこれまでの宿敵、少弐資元と同盟し大内氏に抵抗しますが翌年には大内義隆の軍に攻められ敗死します。以後も探題・渋川氏は存続しますが大内氏の傀儡となり、実質的な探題はにここで終焉を迎えます。
一方、少弐資元は筑前奪回も儘ならず肥前で大内氏に防戦一方となりますが、配下の龍造寺氏の活躍で辛うじて面目を保ちます。そして1534年、資元は大内義隆と和議を結ぶものの2年後には義隆より攻められ多久に逃れそこで自刃します。その後、資元の子・少弐冬尚が後を次ぎますが、配下の内訌により龍造寺氏は少弐氏を見限り大内義隆へ従います。
しかし、豊前・筑前を得て七国の守護となり勢力を誇った大内義隆も1551年には重臣の陶晴賢(すえはるかた)の謀反で自刃しこの世を去ります。その後を陶晴賢の要請で大友宗麟の弟・晴英(義隆の甥)が継ぎ大内義長となるものの6年後には、陶晴賢を破った毛利元就に攻められ自刃し大内氏は滅ぶことになります。
この大内氏の終焉は、龍造寺隆信に攻められた冬尚が自刃し少弐氏が滅亡する2年前の事になります。

その後、肥前では少弐氏に取って代わった龍造寺隆信が戦国大名として頭角を現し、筑前を勢力下に収めていた大友宗麟と対立する事となります。