徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かいましたが、以後、徐福は広い土地を得て王となり始皇帝の元に戻ってくる事はありませんでした。
これが司馬遷の書いた「史記」に載る徐福伝説の概要で、今から2200年以上昔の事になります。
この徐福の得た土地というのが、日本の何処かに違いないと「史記」を読んだ後世の日本の人々は考え、徐福伝説は日本各地に残る事となったのかもしれません。九州では佐賀の金立山や鹿児島の串木野が有名なようですが、福岡にも徐福伝説の痕跡が残っています。
貝原益軒は「筑前国続風土記」の御笠郡天山(あまやま)の項で次のように記述しています。
天山の西方寺(筑紫野市に現存する寺)の上に重なり合う岩石群がある。この場所を里の人々は「童男丱女(どうなんかんじょ)」の旧跡と言うが、その謂われは老人にも知る者はいない。
「童男丱女」は中国・秦の時代に徐福が蓬莱に渡った際、連れて行った男女のこども達の事である。
「童男丱女」は「史記」に記されるものではなく、白楽天の徐福伝説を詠った漢詩にある言葉のようです。「蓬萊山も見つからず童男丱女は船の中で年老いてしまったのだろうか」といった感じでしょうか・・・
益軒は御笠郡天山の項を次の通り締めています。
童男丱女の岩と言う所が、筑後国河崎(八女市)の里にも、丹後の海辺にもある。これは強引にこじつけて命名したものであろう。
益軒の結論は現実的だとは思われるのですが、時の権力者・始皇帝を手玉に取った徐福の向かった先は大陸から遠く離れた島国の可能性が高く、それが対馬や壱岐や種子島、奄美、沖縄の可能性もある訳で、「日本本土では?」との説もまんざら夢物語ではないのかも知れません。