西鉄朝倉街道駅の南に俗明院という土地がありますが、貝原益軒は「筑前国続風土記」にその由来を次の通り記しています。
「太宰府の西南にある村の名なり。むかし九國二島より太宰府に来りし民、若くは久しく逗留し、病をうけて死し、或餓死する者多し。太宰大貳小野岑守(おのみねもり)と云し人、是をあはれみ続命院と云ふ家をたて、田地をつけて病をやしなひ、飢を助く。」・・・ 続きを読む(記想録へ)
西鉄朝倉街道駅の南に俗明院という土地がありますが、貝原益軒は「筑前国続風土記」にその由来を次の通り記しています。
「太宰府の西南にある村の名なり。むかし九國二島より太宰府に来りし民、若くは久しく逗留し、病をうけて死し、或餓死する者多し。太宰大貳小野岑守(おのみねもり)と云し人、是をあはれみ続命院と云ふ家をたて、田地をつけて病をやしなひ、飢を助く。」・・・ 続きを読む(記想録へ)