多々良浜古戦場の史跡


多々良浜古戦場
京都の合戦に敗れ、九州に逃れた足利尊氏は、宗像大宮司らの援軍を得て、建武3年(1336年)多々良川右岸に陣どり、肥後(現在の熊本県)の菊地武敏率いる九州勢と戦いました。当時、この付近一帯では激戦が展開されましたが、尊氏側が勝利をおさめました。その後、尊氏は余勢そのままに京へ攻め上り、室町幕府を築きました。


よかなびMobileの案内板より
他に隣のブロックには「兜塚由来記」の碑が建っており、その碑には次の通り刻まれています。


兜塚由来記
福岡流通センターの一角を占めるこの地は、古来「花園の森」と称せられ、南北朝時代の多々良浜合戦における戦死者を祀つた兜塚の故地である。
元弘三年(一三三三)鎌倉幕府を倒して建武の中興に功労があった足利尊氏は、新政への不満から叛旗を飜えしたが、新田貞義、楠木正成、北畠顕家らに敗れ、大友・島津・少弐らの勢力を恃んで僅か一千余騎で九州に西下してきた。これを迎え撃つ朝廷方の菊池武敏・阿蘇惟直らは大軍をもつて北上し、延元元年(一三三六)三月二日、多々良浜において決戦を挑む。結果は、折柄、北からの春風や水軍松浦党の謀反によつて、菊池勢の大敗に終り、尊氏は再び東上して中央の権力を恢復し室町幕府を開く端緒となつた一戦であつた。
諸書によれば、この合戦の犠牲者は数千人に及んだというが、いつのころからか鎮魂のための兜塚がこの地に建られ、毎年れんげの花咲くころ附近の人々の善意による祭祀が行われてきた。
福岡流通センターの開設に伴い、周辺の風物は変貌してしまつたが、兜塚の故地にはいまなお一本の榎が枝を伸ばし葉を繁らせている。この由緒ある故地を永遠に人々の記憶に留め、心ある人士がしばし足をとどめて悠久の歴史に想いを至されるよう念じて、ここに兜塚の由来を刻するものである。