大原古戦場碑

大原古戦場碑


大原合戦

天平十四年(南朝暦・一三五九年)七月から八月にかけて、およそ六万人の北軍(少弐・大友連合軍)と、およそ四万人の南軍(懐良親王・菊池武光軍)が、宝満川流域の味坂・大原・西島・山隈を含む筑後平野を舞台にして、一大決戦を展開し、両軍の戦死傷者合わせて約二万五千人といわれている。
戦いの結果は南軍の勝利となった。以後、菊池武光は懐良親王を奉じて、大宰府に征西府をおき、十数年間九州政治の実権を握るに至った。
平地戦で短時日にこんなに多数の戦死傷者を出した激戦は稀であるといわれ、その霊魂を弔ったと伝えられる跡や、その他の遺跡はいくつも残っている。左記はその一部である。

一、善風塚 南北両軍の戦死者を埋葬した跡といわれている。
ニ、高卒都婆 千人の僧によって卒都婆をたて、両軍の戦死者を供養した所という。
三、前 伏 現在地付近で少弐軍陣所の跡といわれ、今大原古戦場の石碑び建立されている。
四、将軍藤 征西将軍懐良親王が大原合戦でご負傷され、大中臣神杜の加護で全快されて、奉納された藤と伝えられる。
五、菊池渡 菊池式光が血刀を洗った所といわれている。

昭和五十年十二月十九日

小郡市教育委員会
小郡市郷土史研究会

現地の案内板より