鳥取城跡の吉川経家公像

鳥取城跡の吉川経家公像


吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと

天正九年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の三月、部下四百余人を率いて鳥取城に入城しました。
羽柴秀吉はこの年の七月、二万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釈山(太閣ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約二〇キロメートルに及ぶ大包囲陣を敷いて、徹底した兵糧攻めをしました。
鳥取城に籠った二千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、八月以降、次第に飢えて来ました。
そして、九月、十月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。世に言う「鳥取城の渇殺」であります。
経家は遂に意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。この時秀吉は、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめましたが、経家は、「すべての責は城将たる自分にある」として、兵と民の生命を救って十月二十五日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。時に年三十五歳。その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています。
経家が死に臨み、四人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがあります。

「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきヽあるべく候      かしこ
天正九年十月二十五日            つ  ね  家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ」

 

平成五年十月

鳥     取     市
吉川経家公銅像建立委員会

現地にある案内板より