大伴部博麻呂の碑

大伴部博麻呂の碑

文久3年(1863)北川内村神職小川柳好幸氏は博麻の事蹟を考慮、庄屋木下甚助氏を始め村民有志等に相議(あいかたり)、久留米藩の国学者矢野一貞、船曳鉄門氏等の協力により、博麻の事蹟を自然石に刻書することができた。表面は菅原大善太夫長延の毛筆による七大文字を刻名、背面は大日本史義烈伝の記述より博麻の全文を刻書する。その台座となる石には小川柳好幸氏の和歌を刻み、文久3年7月15日、北川内村虎雄山西側に博麻の石碑を建立する。
 博麻のこと、斉明天皇7年(661)百済を救う役に筑紫国上陽咩郡(かみつやめごうり)の人軍丁(ひといくさよほろ)として出征いたし唐軍と相戦い、白村江に於て日本軍勝利を失い敗北して博麻等及び百済人は唐軍の捕虜となり唐の都である長安に護送された。時に天智天皇3年(664)土師連富抒(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじおゆ)、筑紫君薩夜麻(ちくしのきみさつやま)、弓削連元宝の児(ゆげのむらじげんほうのこ)等は唐人の謀略あることを聞き、早く祖国日本に事情を知らせたいが衣類食糧旅費もなくどうすることもできない、博麻、富抒等に語りて奴隷に身を売り貨財を調達、同僚を日本に帰還させ朝廷に報じることを得た。持統天皇4年(690)博麻は新羅の送使と共に生還30年に亘り他国にとどまり売身輸忠・尊朝愛国の忠節により天皇より恩賞を下し賜る。

平成10年3月20日
上陽町教育委員会


大伴部博麻呂の碑の案内板より




googleマップの「大伴部博麻呂の碑」の位置は、今現在ちょっと東にずれているようです。探すのに苦労しました。南から「寄口眼鏡橋」を渡ってすぐ川沿いに右にまがると、またすぐ左斜めに山へ登る道があります。舗装されていますが狭くて車は入れません。徒歩で5分ぐらいかかり若くないのでひと苦労です。ただ「大伴部博麻呂の碑」がある場所からの眺めはまずまずで、青モミジの間から見れる星野川の透明感も見れてよかった~って感じです。