筑後みやまの平家伝説

壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。
そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。
ただ女人を伴う行軍で思うように進めなかったと想像され、現在の筑後市尾島あたりで源氏の追手に追いつかれ戦闘が起こり、多くの平家の武者が討ち取られます。(現在その遺骸を葬ったといわれる地に「一之塚源平古戦場跡」の塚と碑が建てられています。)


その場を逃れわずかな数となった落人たちは先を急ぎますが10㎞ほど南のみやま市山川町甲田あたりで再び追手に追いつかれます。わずかな将兵は女人を先に逃がし、現在の飯江川と待居川の交わるあたりで源氏の兵を迎え撃ち行く手を塞ぎますが、寡兵かなわずたちまち打ち破られます(要川公園「平家最後の合戦の地」。トップの写真は飯江川と待居川)。


先に逃れた女人たちも川添いに袋小路の山側に分け入り行く手は渓流の水と岩、臨めるものは山の壁、もはやこれまでと七人の女人たちは行き当たった滝で自ら命を絶ちます。
ここが「七霊(ひちろう)の滝」と言われるところで、現在では社が建てられ、今も滝の音が響いています。


以上は私が旧跡を辿り現地の案内板の内容より想像した「筑後みやまの平家伝説」です。私の知る限りでは「壇ノ浦の戦い」直後の平家伝説は筑前にはなく、唐突に筑後から始まるのですが、これらの旧跡を北から順番に巡った者として、これがただの伝説とはとても思えないのです。

ただ、要川公園の近くの案内板には次のような説明もされており、地元でも「平家伝説」はあくまでも伝説であるという説もあるようです。

要川古戦場跡(伝承地)
本市山川町一帯に伝わる平家伝説地の一つ。『南筑明覧』(明和二年・一七六五)によれば、「要川」の項に「小萩よりゆすり出たる要川扇の高さ波や立つらん」という西行法師作と称する和歌を載せ、「又、故老伝へ曰ふ、元歴の乱、平家の残党辞世の歌なりと」と平家伝説にも触れており、「両説未だ詳ならず」としながらも「平家塔は道端に作り」と野町の平家塔のことにも言及している。
一方また『明覧』は、要川について「此所応安六年(南北朝期)、田尻・菊池両家の古戦場なり」とも記しており、おそらく『北肥戦誌』の記事に拠ったものと思われるが、後年『筑後将士軍談』もこの記事を採用している。
なお、『筑後志』(安永六年・一七七七)巻六「文苑」の項には、南筑の以景勝地として「金目川」を掲げているが、平家にまる(?)わる所伝は記されていない。
いずれにしても、要川での源平合戦を裏付ける確たる史料はないが、前記のような地誌や戦記等の記述を重ね合わせて、いわゆる要川源平合戦の伝説が近世以降に形作られてきたものと推測される。

要川橋のたもとにある案内板より