小倉碑文

宮本武蔵の碑

この碑は宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。伊織が播州(兵庫県)明石の藩主であった小笠原忠真に仕えたのは、寛永三年(一六二六)十五歳の時で、同九年小笠原氏が小倉に入国したときには、若くして知行二千五百石の家老であった。
武蔵は数年間小倉に在住したと伝えられているが、寛永十七年には熊本に移り、正保二年(一六四五)五月十九日に没した。
碑は伊織が、忠真から拝領した手向山に、養父・武蔵をしのんで承応三年(一六五四)四月十九日に建てたもので、古くから北九州地方第一の名碑とうたわれている。剣豪の生涯の事跡を伝える碑文は、武蔵と交遊のあった熊本・泰勝寺の春山和尚が記したものである。

北九州市教育委員会

 


 
 
天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶
碑文(文中の異字・異体字等は常用漢字に改めた)
兵法天下無双

于時承応三甲後年四月十九日孝子敬建焉
正保二乙酉暦五月十九日於肥後国熊本卒
播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士碑
臨機応変者良将之達也講武習兵者軍旅之用事也遊心於文武之門舞手於兵術之場而逞名誉人者其誰也播州之英産赤松末葉新免之後裔
武蔵玄信号二天想夫天資曠達不拘細行蓋斯其人乎為二刀兵法之元祖也父新免号無二為十手之家武蔵受家業朝鑚暮研思惟考索灼知十
手之利倍于一刀甚以夥矣雖然十手非常用之器一刀是腰間之具及以二刀為十手理其徳無違故改十手為二刀之家誠武剣之精選也或飛真
剣或投木戟北者走者不能逃避其勢恰如発強弩百発百中養由無踰于斯也夫悟得兵術於手彰勇功於身方年十三而始到播州新当流与有馬
喜兵衛者進而決雌雄忽得勝利十六歳春到但馬国有大力量兵術人名秋山者丈決勝負反掌之間打殺其人芳声満街後到京師有扶桑第一之
兵術吉岡者請決雌雄彼家之嗣清十郎於洛外蓮台野争龍虎之威雖決勝敗触木刀之一撃吉岡倒臥于眼前而息絶予依有一撃之諾輔弼於命
根矣彼門生等助乗坂上去薬治温湯漸而復遂棄兵術雉髪畢而後吉岡伝七郎又出洛外決雌雄伝七袖于五尺余木刀来武蔵臨其機奪彼木刀
撃之伏地立所死吉岡門生含寃密語云以兵術之妙非所可敵対運籌於帷幄而吉岡又七郎寄事於兵術会于洛外下松辺彼門生数百人以兵杖
弓箭忽欲害之武蔵平日有知先之才察非義之働竊謂吾門生云爾等為傍人速退縦怨敵成群成隊於吾視之如浮雲何恐之有散衆之敵也以走狗
追猛獣震威而帰洛陽人皆感嘆之勇勢智謀以一人敵万人者実兵家之妙法也先是吉岡代々為公方之師範有扶桑第一兵術者之号当千
霊陽院義昭公之時召新免無二与吉岡令兵術決勝負限以三度吉岡一度得利新免両度決勝於是令新免無二賜日下無双兵法術者之号故武
蔵到洛陽与吉岡数度決勝負遂吉岡兵法之家泯絶矣爰有兵術達人名岩流与彼求決雌雄岩流云以真剣請決雌雄武蔵対云爾揮白刃而尽其妙
吾提木戟而顕此秘堅結漆約長門与豊前之際海中有嶋謂舟嶋両雄同時相会岩流手三尺白刃来不顧命尽術武蔵以木刀之一撃殺之電光猶
遅故俗改舟嶋謂岩流嶋凡従十三迄壮年兵術勝負六十余場無一不勝且定云不打敵之眉八字之間不取勝毎不違其的矣自古決兵術之雌雄
人其算数不知幾千万雖然於夷洛向英雄豪傑前打殺人今古不知其名武蔵属一人耳兵術威名遍四夷其誉也不絶古老口所銘今人肝誠奇哉
妙哉力量早雄尤異于他武蔵常言兵術手熟心得一毫無私則恐於戦場領大軍又治国豈難矣豊臣大閤公嬖臣石田治郎少輔謀判時或於摂
州大坂秀頼公兵乱時武蔵勇功佳名縦有海之口渓之舌寧説尽簡略不記之加旃無不通礼楽射御書数文況小芸巧業殆無為而無不為者歟
蓋大丈夫之一体也於肥之後州卒時自書於天仰実相円満之兵法逝去不絶字以言為遺像焉故孝子立碑以伝于不朽令後人見嗚呼偉哉


以上、宮本武蔵の碑に置かれている北九州市教育委員会の案内板の内容です