島義勇之像

島義勇之像

島義勇の生涯

島義勇は文政5年(1822)、佐賀藩士島市郎右衛門の長男として、佐賀城下西田代横小路(現在の佐賀市西田代)に生まれた。幼名を市郎助、通称を団右衛門。楽斎と号した。
天保元年(1830)、9歳で藩校弘道館に入学。従兄の枝吉神陽(副島種臣の実兄)と席を同じくし、その父枝吉南濠の「日本一君論」に感化され勉学に励んだという。また神陽が提唱した「義挙同盟」にも名を連ね、江戸遊学を機に水戸藩の藤田東湖とも親しく交わった。
弘化元午(1844)、23歳で家督相続した島は、弘道館目付、藩主鍋島直正の外御小姓などを勤めた後、藩令を受け、安政3年(1856)から翌年にかけて蝦夷地・樺太の調査を行った。
慶応4年(1868)1月。戊辰戦争が起こると、佐賀海軍孟春丸(佐賀藩が英国から購入)に御軍艦奉行としてのり乗り込み、兵庫を目指した。その後横浜に入り、新政府の海軍先鋒参謀補として勝海舟と幕府海軍軍艦の引き渡し交渉を行い、さらに下総下野鎮撫軍監として、旧幕府軍制圧のため北関東へ出陣した。
明治2年(1869)7月、開拓使が設置されると、鍋島直正が開拓使長官に、島が判官に任命された。
8月、従四位に叙位。11月に札幌入りした島は、この地に「五洲第一都」(世界第一の都市)を造るという、壮大な構想を描いて札幌本府の建設に着手。しかし、政策を巡る政府との対立により解任され、志半ばにして札幌を去ることとなった。
明治4年(1871)7月、明治天皇の侍従、12月には秋田県権令(初代県知事)に任命された。
明治7年(1874)、新攻府軍に対抗した旧佐賀藩士族や征韓党の党首・江藤新平とともに、憂国党の党首として兵を挙げたが敗れ、同年4月13日、除族のうえ梟首刑に処せられた。亨年・53歳。
大正5年(1916)4月、生前の勲功により従四位を追贈された。
島義勇が開拓判官として札幌本府の建設に尽力できたのは僅か3ヵ月であったが、島が描いた壮大を都市構想と北海道開拓にかける熱い「志」はその後も受け継がれ、現在の北海道・札幌に生かされている。


現地にある案内板より。案内板には蝦夷地・樺太の探検の記事も載せられています。