寛政異学の禁

各地で藩校が開設された田沼意次の開放政策時代を経て松平定信は1787年より「寛政の改革」を行います。 質素倹約、文武奨励を柱とする政策は学派統一の方針にも向かい、儒学の講義を朱子学に絞り陽明学や古学などの儒学を禁じます。これを「寛政異学の禁」(1790年)と言います。これは元々幕府内だけの方針でしたが、各藩もこれに倣い朱子学に重き置くようになります。 この頃、福岡藩では朱子学を基本理念とする修猷館と前身を私塾とする徂徠学派・甘棠館の二つの藩校があり、学閥間でしのぎを削る状況でした。しかし、この「寛政異学の禁」で甘棠館館長の亀井南冥はその座を追われ(1792年)、主導権は修猷館が握ることとなり、その6年後には火災で校舎を失った甘棠館は廃校となり生徒は修猷館へ編入されます。館長だった亀井昭陽(南冥の長男)は解任され一般藩士として狼煙台の警備の仕事に就いたと言われます。しかし、その後に昭陽は私塾「亀井塾」を開き多くの人材を育てます。幕末維新期には亀井学派から国事に奔走した気骨のある人物が輩出し、甘棠館時代からの広瀬淡窓は日田に戻り私塾「咸宜園(かんぎえん)」を興し後の著名な学者や技術者を育ています。 ところで儒学の正統派とされる朱子学の修猷館に対し、亀井南冥の徂徠学派(古学)とは、「儒学を学ぶためには体系化された参考書は不要で四書五経などの原典を直接読めばよいではないか」といった考え方が基本となっています。古学というと文字からして非常に頑固で取っ付き難そうなイメージを受けるのですが、実は「原点を知り、自分なりの発想をしよう」という考え方の様です。 この時代の学閥問題も今となってはもう200有余年昔の事となるのですが、官僚を育てる修猷館。起業家を育てる甘棠館。当時の二つの藩校の校風はこんな違いだったのかもしれません。 余談になりますが、現在の福岡市博物館には「修猷館」と「甘棠館」の扁額が並べて展示してあります。そして修猷館は福岡の名門県立高校として今もその名を残しています。