人を棄てあるいは笑うべからず

人を棄てあるいは笑うべからず

山岡鉄舟は「人にはすべて能不能あり 一概に人を棄てあるいは笑うべからず」という言葉を残していますが、鉄舟にとって絶対に捨てられなかった人物とは、おそらく薩摩の益満休之助の事だと思われます。
 
益満休之助は薩摩藩の起こした江戸騒乱の主要メンバーで、江戸で放火、略奪を行い、市中警護を行う新徴組屯所に発砲するなどの行為を行います。これは幕府は元より江戸で生活する人々からすれば極悪行為で到底、許されるものではありませんでした。慶応3年12月、幕府は最終的に江戸薩摩藩邸の焼き討ちを行い多くの過激浪士を捕縛しますが、その中の一人が休之助で以後牢獄で死罪を待つ身となります。またこの焼き討ちは京都で鳥羽伏見の戦いの引き金となり、この戦いに勝利した薩長は江戸に官軍を差し向ける事になるのです。
 
そして翌年の3月には官軍が江戸に迫り、幕臣・山岡鉄舟は徳川慶喜の恭順の意を官軍に伝えるため、薩摩軍の西郷隆盛の元に向かいます。その際、案内役に牢獄につながれる益満休之助が選ばれます。以前に鉄舟が休之助と共に清川八郎の「虎尾の会」に属した同志であった事も休之助が選ばれた要因だったと思われます。鉄舟は休之助の案内で西郷の元に無事たどり着き会談を行い、江戸城引き渡しを約束、徳川慶喜の身の安全保証を取り付けます。そしてこの会談は勝と西郷の会談につながって、官軍の江戸城攻撃は中止され、江戸市中が火の海になる危険は回避されました。
 
勝海舟も「人はどんなものでも決して捨つべきものではない」といい、維新後も「二卿事件」に関わった古荘嘉門を静岡に匿っています。後に自首した古荘は「佐賀の乱」で大久保利通に従いこの乱の平定に奔走したと海舟は語っています。