「福岡史伝」及び「記想録」に記載する記事の下書きや名所旧跡に置かれている説明文を掲載しています。
【Draftに関する投稿】
臼井六郎・最後の仇討 投稿日2021年3月21日
秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ斬殺されます。その長男・臼井六郎は11歳でこの暗殺直後の現場を目の当たりにします。これは慶応から明治 [...]
井上伝の胸像 投稿日2021年3月17日
久留米絣の開発者、井上伝の胸像です。この像は近代産業の担い手となった著名人とともに久留米・五穀神社の東側に立っています。
絣とは織る前に糸の一部を染め、その染まった部分と染まっていない部分の交わり方で [...]
左から三番目は誰? 投稿日2021年3月15日
この写真は佐賀市の大隈重信記念館に展示されていた佐賀の偉人の若かりし頃の集合写真です。左から副島種臣、二番目は大隈重信ですが、三番目の頬かむりの人が誰かわかっていないようです。説明文には「江藤新平か大 [...]
臼井六郎の生誕地 投稿日2021年3月14日
日本最後の仇討
臼井六郎の生誕地
父臼井亘理・清子夫妻 干城隊により斬殺される。一子六郎 苦節13年江戸旧黒田家別邸にて犯人を父遺愛の短刀で刺殺し仇討を果たす。M0.5.24 M13.12.17
墓は [...]
蜷城の由来 投稿日2021年3月14日
朝倉市林田にある美奈宜(みなぎ)神社にはその地域の呼び名「蜷城(ひなしろ)」の由来が伝えられています。
大昔、ここはよく肥えた豊かな地でしたが、古処山に羽白熊鷲と言う者があり、時々山を下 [...]
不足不平は一概にわるくないヨ 投稿日2021年3月13日
海舟は「定見深睡」とゆう西洋の言葉をとり挙げて、定見に固執することを戒めています。
今日の是は、明日の非、明日の非は明後日の是といふ風に、一時も休まず進歩すべきものだ。
そ [...]
公私相半ばすれば 投稿日2021年3月4日
人は、公私相半ばすれば、大変なものだ。釈迦や、基督のような人は公ばかりだろうが、そのほかの人は、なかなか公ばかりということは出来ぬ。公私相半ばすれば、よほどの人だ。これをこうゆう都合にといってすれば、 [...]
海舟は性善説?性悪説? 投稿日2021年3月2日
『新訂海舟座談』で海舟は性善説、性悪説に言及しています。
孟子は、性善といい、荀子は性悪といったが、性善でもなく、性悪でもないようだが、先ず、どッちかと言うと、悪い方が多いようだ。
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羽白熊鷲の碑 投稿日2021年3月1日
羽白熊鷲の碑
仲哀天皇御代 木免(きつ)の国(筑紫の国)に未だ皇命を奏ぜぬ部族あり其の長を羽白熊鷲という 荷持田(のとりだ)に盤拠し権力遥かに想像を絶す
神功皇后 新羅征討の途次橿日宮( [...]
勝海舟の不党のすゝめ 投稿日2021年2月27日
勝海舟は多数の弟子や学びを請う若者が多かったにも関わらず、党を作って時世を動かそうという行動をとっていません。
この事について『氷川清話』にはこのような海舟の言葉が載せられています。
人 [...]
その身を世間の風浪に投ず 投稿日2021年2月23日
天下は、大活物だ。区々たる没学問や、小智識では、とても治めて行くことは出来ない。世間の風霜に打たれ、人生の酸味を嘗め、世態の妙を穿ち、人情の微を究めて、しかる後、共に経世の要務を断ずることが出来るのだ [...]
臼井六郎の叔父・八坂甚八 投稿日2021年2月21日
八坂甚八は黒船来航の年に鳥栖で生まれます。明治期に財力を元手に運送業で事業を起こし、九州鉄道の分岐点を鳥栖駅にすることにも奔走し敷地の提供も行います。この様に地域発展に尽くした甚八はその後に国会議員に [...]
『氷川清話』と『海舟座談』 投稿日2021年2月11日
『氷川清話』(講談社学術文庫)は吉本襄(のぼる)が海舟に関する記事を収集し編集した『海舟先生氷川清話』を検証再編集した談話集。
『新訂海舟座談』(岩波文庫)は海舟宅に出入りしていた巌本善治が海舟から直 [...]
吉塚の由来 投稿日2021年1月27日
立花統虎(むねとら・宗茂)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の軍が九州に上陸した情報を得ると南に向けて撤退を開始します。ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた統虎は、これを機に [...]
海舟の手切れ指南 投稿日2021年1月25日
維新の頃の話です。とあるお役人が海舟先生を訪ねた際、雑談ついでに「愛人が飲み代を立て替えてくれるのです」とのろけます。
それからしばらくして、そのお役人が再び先生の元を訪れ、別れ話で先の [...]
人を棄てあるいは笑うべからず 投稿日2021年1月24日
山岡鉄舟は「人にはすべて能不能あり 一概に人を棄てあるいは笑うべからず」という言葉を残していますが、鉄舟にとって絶対に捨てられなかった人物とは、おそらく薩摩の益満休之助の事だと思われます。
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理屈ではわからない 投稿日2021年1月23日
およそ世間の事には、順潮と逆潮とがある。したがって気合も、人にかかって来る時と、自分にかかって来る時とがある。気合が人にかかったと見たら、すらりと横にかわすのだ。もし自分にかかって来たら、油断なくずん [...]
海舟が恐れたもう一人の男 投稿日2021年1月17日
勝海舟は横井小楠と西郷隆盛を恐ろしい人物として挙げていますが、別の意味で恐れたもう一人の男として河上彦斎を挙げています。
河上彦斎は幕末の人斬りで知られる人物で、幕末から維新にかけて結構な人を斬った [...]
九州の仕置き 投稿日2021年1月11日
秀吉は島津を降すと筑前に戻り、九州の仕置きを行います。
小早川隆景 筑前国、肥前の基諱郡(三養基郡)、養父郡(鳥栖市)、筑後の三潴郡(久留米西部)、三原郡(小郡市、現在の三井郡)
[...]
卑弥呼の親魏倭王印? 投稿日2021年1月4日
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけ [...]
金印の「委」は「倭」の略字? 投稿日2021年1月2日
「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。
後漢書には「 [...]
人を説得するには? 投稿日2020年12月22日
島津氏は肥後、肥前、筑後と各地の豪族を従わせ北上し大友氏を追い詰めます。また筑前各地の豪族は大友氏と対立していたため、島津氏の北上を歓迎します。秀吉は島津征伐のため大軍を九州に上陸させるものの、九州で [...]
本能寺の報、毛利に届く 投稿日2020年11月29日
秀吉の陣に本能寺の報が届いたのは1582年6月4日未明になります。孝高は早朝に毛利に使者を遣わし「約束の人質の早急の差出し」を促しますが、毛利側は「準備中」と履行を引き延ばしにしていたところへ、金井坊 [...]
英賀の戦い 投稿日2020年11月23日
小寺政職の織田内通が毛利に伝わると、毛利輝元は5千の兵を姫路南西の英賀(あが)の海辺に上陸させます。
この知らせを受けた孝高は小寺政職に「小勢で大勢の敵と戦うには、敵の不意を衝くしかありません。敵が寄 [...]
秀吉の手紙 投稿日2020年11月21日
黒田藩には秀吉が孝高に送った手紙が残っていた様で貝原益軒の書いた『黒田家譜』にはその手紙の内容が多く転載されています。
そして益軒はその後に次のように書いています。
秀吉公初卑賎にして、 [...]
孝高、信長面会 投稿日2020年11月19日
福岡市博物館には『へし切長谷部』という名刀が収蔵されています。
この刀は織田信長が黒田孝高に賜ったものだとされています。
時は1575年。孝高は「毛利に付くか織田に付くか」で揺れる主家・ [...]
毛利と宇喜多の旗 投稿日2020年10月12日
孝高は毛利と和睦し備中高松城の包囲を解いて京都に引き返す際に、毛利の将・小早川隆景に毛利家の軍旗を2本無心しています。
隆景は不審に思い「旗ばかりお貸ししても大した足しにもなりますまい。毛利家の兵はこ [...]
本能寺の変を報せた男 投稿日2020年10月11日
本能寺の変は1582年6月2日の午前4時頃、明智光秀の軍が本能寺を取り囲んで始まります。
この事変の報を受けた信長の臣・長谷川宗仁は書状を配下の者に託し、備中に出張中の秀吉への飛脚を命じます。
この飛 [...]
事は密を以って成る? 投稿日2020年10月11日
「京都にありし信長の臣長谷川宗仁より飛脚来りて、孝高に対面し、昨二日(1582年6月2日)京都において、信長公併(わせて)信忠卿を、明智日向守が弑し奉りたる由、ひそかに申て状を捧ぐ。孝高飛脚に対し、扨 [...]
男装の漢詩人・原采蘋 投稿日2020年9月21日
福岡では幕末維新期に男装の女医・高場乱が登場しますが、一世代前の1798年にもう一人の男装の漢詩人・原采蘋(はらさいひん)が秋月に生まれています。
父親は甘棠館で亀井南冥に学んだ原古処で、秋月藩の儒学 [...]
白滝神社「白滝夫婦木」 投稿日2020年9月14日
「白滝夫婦木」
白滝神社の御神木、クスの木とムクの木は仲良く絡み合いながら成長しています。クスの木の幹まわりは五.五m、高さ十五m堂々としています。
樹齢三百年とも云われます。
この地は、別称平家堂と [...]
敬止義塾跡 投稿日2020年9月13日
敬止義塾跡
所在地 朝倉郡筑前町二字鐘木塚
福岡藩士であった杉山灌園が、明治十(一八七七)年頃に自宅の離れで塾を開いていました。
近隣から三十人ほどの塾生があり、寄宿しているものもいました。教科書とし [...]
懐良親王終焉之地 投稿日2020年9月7日
南北朝の折 征西の宮 星野の地にありて勤皇の志気を鼓舞せられたが弘和三年二十七日土穴にての伝えあり 今尚 大円寺に於て法要を営む
伝征西将軍宮
懐良親王陵
御陵大明神山中これより 二十分
大円寺星 [...]
日本人の学生はWhyが少ない? 投稿日2020年7月12日
九州帝国大学初代総長の山川健次郎は入学式の訓示で「日本の学生はHowを重視するがWhyが少ない」とイギリス人講師から指摘された事を挙げ、疑問を持ち考える事を要望したといいます。
山川健次郎は会津・白虎 [...]
野村望東尼終焉の宅の碑 投稿日2020年7月6日
史跡 野村望東尼終焉の宅
望東尼は福岡の歌人 激動する幕末志士のかげにあって活躍した女流勤王家である 薩長の連合が成り 討幕軍が三田尻から出陣しようとするとき 寄寓先山口から防府に来て 防府天満宮に七 [...]
島義勇之像 投稿日2020年7月5日
島義勇の生涯
島義勇は文政5年(1822)、佐賀藩士島市郎右衛門の長男として、佐賀城下西田代横小路(現在の佐賀市西田代)に生まれた。幼名を市郎助、通称を団右衛門。楽斎と号した。
天保元年(1830) [...]
小倉碑文訳 投稿日2020年7月4日
天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶
兵法天下無双
1654年4月19日、孝子、武蔵を敬って建立
1645年5月19日、肥後熊本に於いて死去
兵庫県赤松氏の子孫・新免武蔵玄信 [...]
板垣退助先生像 投稿日2020年7月3日
板垣退助(1837-1919)
近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1837)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、|日姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊 [...]
周布政之助舊宅地 投稿日2020年7月2日
周布政之助旧宅地
周布政之助は、文政6年(1823)萩藩大組(78石余)の家に生まれた。藩校明倫館に学び、俊才と評された。弘化3年(1846)有志とともに嚶鳴社を結成し、時事を討議した。嘉永5年(18 [...]
前原一誠舊宅 投稿日2020年7月1日
前原一誠旧宅
萩藩の大組士佐世比彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、安政4年24歳の時に松下村塾に入門した。
戊辰戦争で北越官軍参謀を務め、越後府判事を経て参議に進み、ついで明 [...]
入江九一・野村靖兄弟誕生地 投稿日2020年6月30日
入江九一・野村靖兄弟誕生地
入江九一・野村靖は、下級武士野村家の長男・三男としてこの地に生まれた。ともに松下村塾に入門し、吉田松陰の教えを受けた。
兄・入江九一は萩藩無給通。尊王攘夷運動 [...]
初代内閣総理大臣 伊藤博文別邸 投稿日2020年6月29日
別邸は、日本で最初の総理大臣・伊藤博文が明治40年(1907)に東京都品川区大井に建てたものをこの地に移築し、平成13年(2001)から公開しています。
別邸内には、天皇から下賜された灯篭や杉の一枚板 [...]
漢委奴国王印の鈕はラクダ? 投稿日2020年6月28日
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。
中国の各 [...]
元帥公爵山縣有朋誕生地 投稿日2020年6月28日
山縣 有朋
明治・大正期の軍人・政治家・公爵。
川島で出生。松下村塾に学び、奇兵隊の軍監となり。高杉晋作挙兵による内訌戦等に活躍、戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。明治以後、陸軍卿・参議・陸軍大将・元 [...]
才谷屋跡 投稿日2020年6月25日
坂本龍馬の本家
豪商
才谷屋跡
坂本龍馬の本家である才谷屋は、
坂本家四代(当時は大浜姓)八兵衛守之が
寛文六年(一六六六)に長岡郡殖田郷才谷村(現南国市)
より高知城下本丁筋三丁目(現上町三丁目)に [...]
板垣退助先生誕生之地 投稿日2020年6月24日
板垣退助(1837-1919)
戊辰の役には藩兵千人を率い東山道先鋒を務めた 立志社をつくり自由民権運動をおこす 自由党の総理となり全国遊説中 明治15年岐阜で刺される 「板垣死すとも自由は死せず」の [...]
吉田東洋先生殉難之地 投稿日2020年6月23日
吉田東洋(1816-1862)
本名正秋通称元吉 15代藩主山内豊信(容堂)に信任され 安政改革を推進文武館を建設 「海南政典」を編さんしたが公武合体策を堅持したため 武市瑞山の率いる土佐勤王党の刺客 [...]
近藤長次郎邸跡 投稿日2020年6月22日
近藤長次郎(1838-1866)
天保9年 大里屋伝次の長男に生まる 長して坂本龍馬に兄事し活躍 神戸海軍操練所をへて長崎 亀山社中に投じ ユニオン号譲渡をめぐって薩長連合に一役をになうも そのあと単 [...]
後藤象二郎先生誕生之地 投稿日2020年6月21日
後藤象二郎(1838~1897)
天保9年3月19日この地に誕生 義叔父執政吉田東洋に学び 藩政に抜擢される 第15代藩主山内豊信(容堂)の信任を受け公武合体論を唱え土佐勤王党と対立 武市瑞山らを断獄 [...]
シーボルト宅跡 投稿日2020年6月20日
シーボルト宅跡
指定年月日 大正11年10月12日
所 在 地 長崎市鳴滝2丁目
所 有 者 国ほか
文政6年(1823)に出島和蘭商館として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や、 [...]
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