Draft

「福岡史伝」及び「記想録」に記載する記事の下書きや名所旧跡に置かれている説明文を掲載しています。


 

【Draftに関する投稿】

海舟の虚心坦懐 投稿日2019年7月27日
「勝敗を急ぐと、頭に血が上り、鼓動も早くなる。そうなると対応が裏目に出て、逆に進退を危うくすることから逃れられなくなる。もし逃れられたとしても防御に立とうとする気が起こり、相手に乗じられてしまうものだ [...]

経済とは生き物!? 投稿日2019年6月9日
「経済とは生き物やね」。バブルという言葉が派生する数年前の頃、不景気についての会話中に経理課の同僚がつぶやいた言葉です。 恐らく前日の報道番組の請け売りだったのでしょうが、その報道番組を見ていた自分も [...]

楽しみを失なうべからず。 投稿日2019年5月29日
益軒は「養生訓」に次の通り書いています。   楽しまずして天地の道理にそむくべからず。 つねに道を以て欲を制して楽しみを失なうべからず。   楽しみを求めることは人として当 [...]

必ず何か一得はあるものだ。 投稿日2019年5月27日
人はどんなものでも決して捨つべきものではない。いかに役に立たぬといつても、必ず何か一得はあるものだ。おれはこれまで何十年間の経験によつて、この事のいよいよ間違ひないのを悟ったヨ。 勝海舟談話集「氷川 [...]

皆美を好むべからず 投稿日2019年4月20日
すべての事に完璧を求めると、心のわずらいとなり余裕がなくなってしまう。 人に完璧を求めて、人の足らないところを怒ったり咎めれたりすれば、心のわずらいとなる。 また日用の飲食、衣服、器物、家居、草木など [...]

窮屈逼塞は天地の常道ではないヨ。 投稿日2019年4月2日
海舟は「氷川清話」に方針を固持してはいけないと書いています。 我に四角な箱を造って置いて、この箱に丸い物や三角の物を詰め込むのはご苦労千万な事だ。 執一の定見をもって天下を律せんとするのは、決して王道 [...]

「氷川清話」は幕末史の原典? 投稿日2019年3月17日
「氷川清話(講談社学術文庫)」を読み始めてすぐは、自分の幕末における知識が間違っていなかったことに安心していたのですが、読み進めるうちに今までに小説やテレビの歴史情報番組から得た自分の幕末史の知識の半 [...]

勝海舟の黒田長溥・評 投稿日2019年3月10日
勝海舟は福岡藩第11代藩主・黒田長溥について氷川清話(講談社学術文庫)で次の通り語っています。 「幕府時代の大諸侯にして、最も早く外国の事に注意したるは黒田長溥公であつた。」 黒田長溥の蘭癖は流行 [...]

寝転んで待つのが第一サ。 投稿日2019年2月24日
最近、勝海舟の談話集「氷川清話」(講談社学術文庫)を読んでいるのですが、その中で海舟は悪い立場に陥った際の対処方法を次のとおり語っています。   「上がった相場も下がるときがあるし、下がっ [...]

豊前、筑前、筑後について 投稿日2018年12月30日
現在の福岡県は大まかに分けて北部と南部の二つの地域に分かれていて、同じ福岡県人でも言葉やイントネーション、文化が微妙に違います。これは佐賀県でも同様のようで、山に隔てられた北部の玄海灘側と南部の有明海 [...]

野上一閑と三奈木弥平次 投稿日2018年12月17日
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりま [...]

昔は瓢箪で鵜飼? 投稿日2018年12月4日
江戸時代の初期頃までの筑後川の鵜飼漁は船は使わず泳いで漁を行っていたようです。 「江戸時代の初期頃までは漁師は大きな瓢箪を背につけてよりかかり、水にうかんで、右の手にススキの松明を持ち、左の手で2~ [...]

福岡の一夜城・益富城 投稿日2018年11月3日
島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は [...]

俗明院の由来 投稿日2018年10月14日
西鉄朝倉街道駅の南に俗明院という土地がありますが、貝原益軒は「筑前国続風土記」にその由来を次の通り記しています。 「太宰府の西南にある村の名なり。むかし九國二島より太宰府に来りし民、若くは久しく逗留 [...]

古屋佐久左衛門 投稿日2018年10月8日
筑後古飯(ふるえ)の庄屋の生まれで医学を志し大阪に出ますが、医学が性に合わない事を悟り、江戸に向かい英語や洋学を学び、洋学書の翻訳などを手がけます。また婿養子で古屋家を継ぎ幕臣となります。戊辰戦争では [...]

西光寺の鐘は中山鹿之介の陣鐘? 投稿日2018年9月9日
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳 [...]

「白村江の戦い」の帰還兵・博麻 投稿日2018年9月2日
大伴部博麻(おおともべのはかま)は現在の八女市上陽町の出身で663年の「白村江の戦い」に出征し、唐軍の捕虜となります。 翌年には土師富杼(はじのほど)ら4名が唐人の計画を朝廷に知らせようと帰国を考えま [...]

王道は偏なく党なくして平平なり。 投稿日2018年9月1日
貝原益軒の養生訓には次のとおり書かれています。 「後人、その偏見に従いて組するは何ぞや。凡(おおよそ)職見(しきけん)なければその才弁ある説に迷いて、偏執に泥(なず)む。」 (後世の人は、その偏見に [...]

朝日山城跡 投稿日2018年8月19日
九千部山麓の南に横たわる朝日山は、頂上からの展望はすばらしく、また交通の要衝にあたるため、古代からさまざまに利用されています。『肥前風土記』によれば朝日山に烽が置かれ、西九州と大宰府を結ぶ重要な情報線 [...]

阿蘇神社 投稿日2018年8月19日
阿蘇神社は阿蘇の国つくりの主、健磐龍命を始め十二神を祀り、肥後-の宮として古代から重要な地位を占めてきました。 阿蘇神社で執り行われている国指定重要無形民俗文化財「阿蘇の農耕祭事」は阿蘇谷に暮らす人々 [...]

マルちゃん訪問 投稿日2018年7月16日
昨日、テレビで有名になった嘉麻市・前田酒店の店番犬・マルちゃんに会いに行ってきました。 中に入ると、マルちゃんは店内の片隅でお昼寝中。 見知らぬ来客に気がついたマルちゃん、戸惑い気味でおかあさんの顔を [...]

神埼の櫛田宮 投稿日2018年6月17日
ご由緒沿革 大昔 荒ぶる神が人々を害したが、景行天皇が櫛田宮を創建されてからは災厄はなくなり神の幸の郡と名づけた(神埼郡)。今から千九百余年前 吉野ヶ里遺跡と同時代の事である。 皇室領の神埼庄の郡中総 [...]

宇佐八幡宮神託事件-豊前の伝説- 投稿日2018年5月7日
宇佐八幡宮神託事件は続日本記(しょくにほんぎ)に書かれている出来事です。 続日本記の記事は769年、称徳天皇の怒りの詔(みことのり)から唐突に始まります。 「臣下というものは、君主に従い清く貞しい明る [...]

奇兵隊陣屋跡 投稿日2018年5月4日
文久三年(一八六三)六月、萩本藩主の命を受けた高杉晋作が馬関に出張し、武士以外の人たちも入隊を許し、奇兵隊を結成した。 奇兵隊は翌、元治元年、米、英、仏、蘭、四ヶ国連合艦隊を前田砲台などに迎撃し、勇気 [...]

帰ってきた「親不孝通り」 投稿日2018年4月7日
先日久振りに所用で天神に出たので、ついでに親不孝通りに足を伸ばしました。 「親不孝通り」は随分以前に「親富考通り」に名称変更されたのですが、噂どおり「親不孝通り」の呼称に戻された様です。 ところでこの [...]

五卿潜居由来 投稿日2018年3月25日
七卿潜居由来  文久三年(一八六三)八月の政変によって朝議は公武合体の方針をとり、尊攘派の長州は皇居護衛の任を解かれたために三条実美ら尊王派の七卿を奉じて山口に帰った。 翌元治元年第一回長州征伐の恭順 [...]

横大路城跡・松崎城跡 投稿日2018年3月24日
横大路城跡・松崎城跡 横大路城跡・松崎城跡は、日の隈山東の峰に築かれた中世の山城跡です。正確な築城年代は不明ですが、正平八年頃に一色氏により築城されたと伝えられています。日の隈山の東に位置する峰一帯に [...]

妙見宮の和気清麻呂公像 投稿日2018年3月24日
足立山と猪に乗る 和気清麻呂公像 神護景雲三年(七六九年)当社におまつりされている和気清麻呂公は、皇位を奪おうとした僧弓削道鏡の邪望を打ち砕いたが、恨みをうけたため、足の筋を斬られ大隅国(現在の鹿児 [...]

龍馬とお龍が巌流島で打ち上げ花火? 投稿日2018年3月21日
龍馬もお龍も巌流島に上陸? 巌流鳥は、慶長17年(1612年)4月13日、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の地として広く知られていますが、実は坂本龍馬の逸話も残されています。 慶応3年(1867年)春、下 [...]

将軍梅 投稿日2018年3月11日
正平十四年(一三五九年)の夏、征西将軍宮懐良親王を奉じた菊池武光らがこの地に陣を敷いた。親王は、念持仏である阿弥陀像をここに安置し、手向けに一株の紅梅をお手植になり、百万遍の仏名を唱えられたとされてい [...]

五郎山と天山と宝満山 投稿日2018年3月5日
福岡県筑紫野市にある歴史にまつわる三つ山を撮影しました。(北に向かって撮影しています) 手前が五郎山古墳がある原田・五郎山。五郎山古墳は終戦から2年後に発見された6世紀後半の古墳とされ内部では壁画が [...]

薩摩街道 松崎宿「油屋」 投稿日2018年3月4日
今日は晴れたので、西郷隆盛の泊まったといわれる小郡市松崎の「油屋」の撮影に行って来たのですが、残念ながら史跡「油屋」は建替中でした。 薩摩街道は島津藩が参勤交代で通った街道で松崎宿はその宿場町というこ [...]

御所ヶ谷神龍石と周辺の史跡 投稿日2018年3月4日
御所ヶ谷神龍石(ごしょがだにこうごいし)は7世紀に国外からの侵攻に備えて築かれた古代の山城跡で、面積 35万平方メートル、全周3kmにおよぶ大規模な遺跡です。切石の列石を連ね、その上に土を積んだ城壁が [...]

小倉城 投稿日2018年2月25日
小倉城 細川忠興は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と豊後国二郡を領する三十万石(検地高三十九万九千石)の大名として入国、中津城に在城した。居城を小倉に移すため慶長七年これまで [...]

西鯵坂城跡の碑 投稿日2018年1月13日
西鯵坂城跡 ここから東南二百米ばかりの所、大楠の下に小さい石の堂が建っている。ここが城の中心地で、筑後志には「筑紫上野介家宗が據りし所なり。縦六十間、横二十間の平城なり」と書いてある。宗氏代々の居 [...]

大原古戦場碑 投稿日2018年1月11日
大原合戦 天平十四年(南朝暦・一三五九年)七月から八月にかけて、およそ六万人の北軍(少弐・大友連合軍)と、およそ四万人の南軍(懐良親王・菊池武光軍)が、宝満川流域の味坂・大原・西島・山隈を含む筑 [...]

鳥取城跡の吉川経家公像 投稿日2018年1月9日
吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと 天正九年、天下制覇を目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣 [...]

小倉城の珪化木 投稿日2018年1月7日
響灘の珪化木(けいかぼく) 木の幹が地層にうずもれて、 化石に変わったものを珪化木と呼びます。 この珪化木は、響灘の海底から引き上げられ たもので、今から約4000万年前のものです。 木の種類は [...]

伊能忠敬測量記念碑と常盤橋 投稿日2018年1月6日
伊能忠敬測量200年記念碑  江戸時代の測量家伊能忠敬は、50歳で商家の家業を長男に譲り第二の人生を志し、天文・暦学を学ぶ。寛政12(1800)年、55歳の時江戸より蝦夷地に向け測量の第一歩を踏 [...]

少弐景資の墓 投稿日2018年1月6日
少弐景資は、文永十一年(一二七四)と弘安四年(一ニハー)の二回に渡る蒙古襲来に際し、第一線の指揮官として活躍した勇将であります。 弘安七年北条時宗が病没した後、鎌倉幕府の内部一に政権争いが起こり、御家 [...]

裂田の溝 投稿日2018年1月5日
裂田の溝 さくたのうなで (築造年代 不明) この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくたのうなで)です。 山田のーノ井堰から取水し、山田をはじめ、流域の六集落の田地をうる [...]

多々良浜古戦場の史跡 投稿日2018年1月4日
多々良浜古戦場 京都の合戦に敗れ、九州に逃れた足利尊氏は、宗像大宮司らの援軍を得て、建武3年(1336年)多々良川右岸に陣どり、肥後(現在の熊本県)の菊地武敏率いる九州勢と戦いました。当時、この付 [...]

名島帆柱石 投稿日2018年1月4日
ここから10m程奥に入った場所にある9個の円柱状石は、古第三紀漸新世前期(今から約3500万年前)に堆積した志免層群名島層の砂岩、礫岩層中に含まれる珪化木(けいかぼく)とよばれる樹木の化石です。香椎宮 [...]

高松兄弟生誕の地 投稿日2018年1月4日
古屋佐久左衛門先生伝 幕末開国論の先覚者古屋佐久左衛門先生は、高松虎之助直道(後に與吉と改む)の次男として、天保四年(一八三三 に生まれ名は智○通稱勝次と稱した嘉永四年(一八五二)十九才にして単身 [...]

高山彦九郎終焉の地 投稿日2018年1月4日
 高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享四年(一七四七)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生まれました。 寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な彦九郎は、全国各地を遊歴し、当時の徳川幕府を [...]

船迫窯跡 瓦工房建物 投稿日2018年1月4日
瓦を製作した工房建物(奈良時代) 幅11.5m、長さ30mもある巨大建物が2棟並んで発見されました。しかし柱穴は10~15㎝と小さく、柱並びも悪いことから、豊前国分寺で使用する大量の瓦をここで製作 [...]

佐賀の史跡 伊東玄朴旧宅 投稿日2018年1月3日
佐賀県史跡 伊東玄朴旧宅 伊東玄朴は寛政十二年(西暦一八〇〇)農家の長男としてここに生まれました。 十一歳のとき不動院玄透法印(げんとうふいん)について漢学を学び、十七歳で自宅にて漢方医を開きま [...]

博多の人魚伝説 投稿日2017年10月1日
博多冷泉町にある竜宮寺には人魚の物と言われる骨が安置され、「人魚伝説」が伝えられています。 鎌倉時代の1222年、博多津(冷泉津)で150m(異説あり)に近い巨大な人魚が捕らえられ、櫛田神社に近い浜 [...]

宗像市の平信盛公墓 投稿日2017年5月4日
- 平信盛公墓の碑 - 墓は白塀の奥にあり、案内板には次の通り記載されています。 宗像市 文化財第一号 史蹟 (昭和四十九年三月三十日) 名称 平信盛笠塔婆 一基 説明 この墓碑は平信盛(清盛の [...]

赤間宿の「五卿 西遷の碑」 投稿日2017年5月4日
- 五卿 西遷の碑 - 案内板には野村和作、三条実美、早川勇の写真と共に、次の通り記載されています。 五卿 西遷の碑 幕末の文久3年(1863年)8月18日の政変によって、攘夷派の急先鋒だった三 [...]





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