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「福岡史伝」に記載する記事の下書きや名所旧跡に置かれている説明文を掲載しています。

 


「福岡史伝」
-福岡2000年の歴史をかんたん簡単解説-

 

福岡の歴史は古く、西暦57年に中国後漢の光武帝より奴国王に金印が送られ、それから約三百年後に書かれた三国志にも奴国として登場します。
以来、磐井の乱、白村江の戦い、高僧鑑真の来日、菅原道真の左遷があった平安時代から、元寇「文永・弘安の役」の鎌倉時代、足利尊氏、菊池武光、今川了俊などの英雄を輩出した南北朝時代、高橋紹運の岩屋城籠城戦と豊臣秀吉の「博多町割り」、五卿の遷座と筑前勤皇党の幕末。

日本史の重要な場面には必ず登場するのが福岡です。福岡の歴史を知ることで、日本史の全体像を側面から捉える事ができるものと思われます。

そんな福岡の歴史を名所旧跡をまじえながらご紹介します。
遠方で歴史研究をされている方、観光、出張で福岡に来られる方のために僅かでもお役に立てればと考えています。

福岡史伝


 

 

【Draftに関する投稿】

野村望東尼終焉の宅の碑 投稿日2020年7月6日
史跡 野村望東尼終焉の宅 望東尼は福岡の歌人 激動する幕末志士のかげにあって活躍した女流勤王家である 薩長の連合が成り 討幕軍が三田尻から出陣しようとするとき 寄寓先山口から防府に来て 防府天満宮に七 [...]

島義勇之像 投稿日2020年7月5日
島義勇の生涯 島義勇は文政5年(1822)、佐賀藩士島市郎右衛門の長男として、佐賀城下西田代横小路(現在の佐賀市西田代)に生まれた。幼名を市郎助、通称を団右衛門。楽斎と号した。 天保元年(1830) [...]

小倉碑文訳 投稿日2020年7月4日
天仰 実相 円満 兵法 逝去 不絶   兵法天下無双   1654年4月19日、孝子、武蔵を敬って建立 1645年5月19日、肥後熊本に於いて死去 兵庫県赤松氏の子孫・新免武蔵玄信 [...]

板垣退助先生像 投稿日2020年7月3日
板垣退助(1837-1919) 近代日本の道を開いた自由民権運動の最高指導者として有名。天保8年(1837)4月17日、高知城下中島町の上士の家に生まれ、|日姓は乾、無形と号した。討幕運動に参加、戊 [...]

周布政之助舊宅地 投稿日2020年7月2日
周布政之助旧宅地 周布政之助は、文政6年(1823)萩藩大組(78石余)の家に生まれた。藩校明倫館に学び、俊才と評された。弘化3年(1846)有志とともに嚶鳴社を結成し、時事を討議した。嘉永5年(18 [...]

前原一誠舊宅 投稿日2020年7月1日
前原一誠旧宅   萩藩の大組士佐世比彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、安政4年24歳の時に松下村塾に入門した。 戊辰戦争で北越官軍参謀を務め、越後府判事を経て参議に進み、ついで明 [...]

入江九一・野村靖兄弟誕生地 投稿日2020年6月30日
入江九一・野村靖兄弟誕生地   入江九一・野村靖は、下級武士野村家の長男・三男としてこの地に生まれた。ともに松下村塾に入門し、吉田松陰の教えを受けた。 兄・入江九一は萩藩無給通。尊王攘夷運動 [...]

初代内閣総理大臣 伊藤博文別邸 投稿日2020年6月29日
別邸は、日本で最初の総理大臣・伊藤博文が明治40年(1907)に東京都品川区大井に建てたものをこの地に移築し、平成13年(2001)から公開しています。 別邸内には、天皇から下賜された灯篭や杉の一枚板 [...]

漢委奴国王印の鈕はラクダ? 投稿日2020年6月28日
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。   中国の各 [...]

元帥公爵山縣有朋誕生地 投稿日2020年6月28日
山縣 有朋 明治・大正期の軍人・政治家・公爵。 川島で出生。松下村塾に学び、奇兵隊の軍監となり。高杉晋作挙兵による内訌戦等に活躍、戊辰戦争では官軍の参謀として転戦。明治以後、陸軍卿・参議・陸軍大将・元 [...]

才谷屋跡 投稿日2020年6月25日
坂本龍馬の本家 豪商 才谷屋跡 坂本龍馬の本家である才谷屋は、 坂本家四代(当時は大浜姓)八兵衛守之が 寛文六年(一六六六)に長岡郡殖田郷才谷村(現南国市) より高知城下本丁筋三丁目(現上町三丁目)に [...]

板垣退助先生誕生之地 投稿日2020年6月24日
板垣退助(1837-1919) 戊辰の役には藩兵千人を率い東山道先鋒を務めた 立志社をつくり自由民権運動をおこす 自由党の総理となり全国遊説中 明治15年岐阜で刺される 「板垣死すとも自由は死せず」の [...]

吉田東洋先生殉難之地 投稿日2020年6月23日
吉田東洋(1816-1862) 本名正秋通称元吉 15代藩主山内豊信(容堂)に信任され 安政改革を推進文武館を建設 「海南政典」を編さんしたが公武合体策を堅持したため 武市瑞山の率いる土佐勤王党の刺客 [...]

近藤長次郎邸跡 投稿日2020年6月22日
近藤長次郎(1838-1866) 天保9年 大里屋伝次の長男に生まる 長して坂本龍馬に兄事し活躍 神戸海軍操練所をへて長崎 亀山社中に投じ ユニオン号譲渡をめぐって薩長連合に一役をになうも そのあと単 [...]

後藤象二郎先生誕生之地 投稿日2020年6月21日
後藤象二郎(1838~1897) 天保9年3月19日この地に誕生 義叔父執政吉田東洋に学び 藩政に抜擢される 第15代藩主山内豊信(容堂)の信任を受け公武合体論を唱え土佐勤王党と対立 武市瑞山らを断獄 [...]

シーボルト宅跡 投稿日2020年6月20日
シーボルト宅跡 指定年月日 大正11年10月12日 所 在 地 長崎市鳴滝2丁目 所 有 者 国ほか 文政6年(1823)に出島和蘭商館として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や、 [...]

福岡孝弟先生誕生之地 投稿日2020年6月19日
福岡孝弟(1835-1919) 通称藤次 維新の進歩的で偉大な政治家で 大政奉還に尽力 五箇条御誓文は孝弟が由利公正 木戸孝允と協力した文案である 文部卿となり 枢密院顧問官議定官となる。 現地 [...]

品川弥二郎生誕地 投稿日2020年6月18日
品川弥二郎 天保十四年(一八四三)九月、中間品川弥市右衛門の子として、萩松本村船津に生まれる。安政四年(一八五七)、十五歳のとき松下村塾に入り、当初より松陰に大変期待されたようである。文久年間(一八六 [...]

久坂玄瑞誕生地 投稿日2020年6月17日
久坂玄瑞 平安古町 幕末の志士。この地に出生。明倫館に入り、のち医学館で学ぶが、医学を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称された。長井雅楽の航海遠略策に反対し、藩論を尊攘討幕に一変 [...]

吉田稔麿誕生の地 投稿日2020年6月16日
吉田稔麿は、1841年(天保12)、足軽の長男としてこの地に生まれた。松下村塾に入門し、高杉晋作らとともに松陰門下の四天王といわれた。吉田松陰の死後、尊王攘夷運動に参加し、屠勇隊(有志の部隊)を組織し [...]

武市半平太邸跡及び道場跡 投稿日2020年6月16日
土佐勤皇党首領である武市半平太(瑞山)は、嘉永3(1850)年に長岡郡吹井村(現高知市)から祖母と妻冨とともに城下の新町田淵に移り住み、安政2(1855)年の春、間口6間・奥行4間(11m×7.3m) [...]

間崎滄浪先生宅跡 投稿日2020年6月15日
間崎哲馬は土佐勤皇党に属し、藩政改革を進めるため青蓮院宮に令旨を請うが、この事が藩主・山内容堂の逆鱗に触れて平井収二郎、弘瀬健太と共に切腹を命じられる。   [...]

特別史跡水城西門跡 投稿日2020年6月14日
特別史跡水城跡の調査成果 ここは特別史跡水城跡の西門の跡です。水城は西暦六六四年に博多湾側から攻め入ることが予想された唐・新羅軍に備えて造られた防衛施設ですが、東と西に二つの門がありました。 平成六 [...]

小水城跡 投稿日2020年6月2日
上大利小水城跡その風景 水城跡は、鎌倉時代には防衛施設としての機能を失いますが、天智朝に造られたことが地元に伝わっておリ、重要な遺跡として人々に知られていました。 一方、上大利小水城跡は、昭和の初めに [...]

小倉碑文 投稿日2020年5月31日
宮本武蔵の碑 この碑は宮本武蔵の養子・伊織が建立したものである。伊織が播州(兵庫県)明石の藩主であった小笠原忠真に仕えたのは、寛永三年(一六二六)十五歳の時で、同九年小笠原氏が小倉に入国したときには [...]

朝倉の三連水車 投稿日2020年5月25日
朝倉の三連水車の観光に訪れた際には水車の見学だけではなく、何故この地に水車が必要だったのか関心をもっていただけるともっと面白い観光ができるかもしれません。 筑後川が大きく南に蛇行する山 [...]

国指定史跡 船迫窯跡 投稿日2020年5月21日
国指定史跡 船迫窯跡(平成11年1月28日指定) 平成7年、船迫地区の農業基盤整備に伴う発掘調査で、水田下より大規模な工房建物跡が発見されました。これを契機に窯跡の確認調査を実施したところ、9基の窯跡 [...]

勝海舟の最期 投稿日2020年5月17日
大寒に入るの前一日、天気晴朗なり。この日、海舟先生、意気殊(こと)に爽然として、諧謔百出す。午前、入って浴して後、微(すこ)しく異常あり。少(しば)らくして、胸頭激痛を起こし、悪汗流れ発す。命じてこれ [...]

羽犬塚の由来 投稿日2020年5月10日
羽犬塚の由来は、二つあるようです。 一つは九州征伐の際、豊臣秀吉が連れてきた羽がはえたかのようにすばしっこく走り回る犬がこの地で死んだため、塚を作り「羽犬塚」としたという言い伝えと、もう一つはこの地 [...]

筑後みやまの平家伝説 投稿日2020年5月9日
壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力もなかったのかもし [...]





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